さくららい制作日記

こころと創作について

その日、その日の幸せとは

 

  芸術を愛してきました。


  ぼくの人生は、誰かの心の糧となれたのでしょうか。


  ぼくは、芸術からたくさん恵をうけて育ちました。もし、誰かに少しでも心の恵となれたならば、なんらかの想いが宿れたならば、幸せなのでしょうね。

死を書く自由

 

  それを書いたら怒られる。

 

  雑誌で発表する。

  つまり、それは編集者の目を通して、客観的な視点をかいくぐって、市場で流通させること。

  コロコロの漫画で、チンギスハンにチンチンを落書きをしたとして、朝青龍がそれを晒し、ネットで炎上した。別にチンチンくらいで怒るなや、と思う。

  しかし、もっと残念なのは小学館が謝罪したことだ。次号で、おぼっちゃまくんにフォローしてもらえば一流のエンタメになったかもしれないのに。

 

  書いたら誰かに怒られる。

  例えば、天皇がそうだし、自殺について書いてもダメだろう。絶望先生はギリギリなところを綱渡りした。
  ぼくは自殺したい人には、自殺させてあげたらいい、と思う。ぼくももうそろそろ無にかえりたい。でも、その方法を書くとだめなのだ。
  死ぬ自由も、書く自由もない。いったい何が壁となっているのか? それは、世間の目だ。

  世間の目は、そういうことがあってはならない、と壁となる。いまはSMSがあるから、すぐに炎上してしまう。ならば、炎上しても買いたくなるようなことを書けばいいと思う。ある右翼や左翼の思想でもいいし、ジェンダー論でもいい。
  問題は、それをエンタメとして受け入れてくれるかなのだ。死も、殺人考察も、差別も、エンタメとして受け入れられるなら、商売になる。それが出版業界を豊かにするはずなのだ。

と、これはぼくがもう死にたいから要求している節もある。一読者としては、死を娯楽として含むような危険なものに手を出したい。幅広く本と芸術が生まれてくれればいい。

 

  社会が衰退するとか、事件が起きるかどうか、なんてのはこの際考える余裕がない。
  面白いもの(人間の考えうること)をもっと読みたい、見たい、体験したい。
  出版社が謝罪し、自粛しないか、それが心配です。

戦争とゲーム

 

  叔父さんが病気になった。ぼくは本来なら帰省することになっていたけれど、後日にみおくり。

  で、やることもなくゴロゴロしとりました。
夜になって毎日ムックの昭和50年を読んで、つい読み耽り。むかし、新聞に三島由紀夫の首が写っていたーとか、あったらしいです。ムックにも死体が写っていてショッキング。

  そう、ぼくら平成生まれは、ショッキングなものから遠ざけられて育った。人が死ぬとはどういうことなのか、ろくに考えてこなかった。
ただ、親やそのまた親から、戦争は悲惨だったと聞かされた。でもやっぱり聞いた話しに過ぎない。実感がないのです。

  ぼくは、隣の部屋に誰が住んでいるのかを知らない。生活どころか名前すら知りません。子供の頃は、子供がいない時代に育ってきました。
だからか、個人的な視野で社会を見てしまっている。
  どうしたらいいのでしょう?。

  毎日、ご飯はいつ食べるるのか、とか、ゲームが面白いとか、そうでない、という小さな世界で暮らしています。
なのに、ツイッターやブログでは世界と繋がっている…………。

  確かに戦争も大学闘争も経験してきていないのですが、だからと言って幸せでもない。幸せでもないから、何かのために生きるって、隣の人の名前も知らないのに難しい。

 

  今日買った『聖剣伝説2』なんでも、名作らしい。『聖剣伝説4』を勧められたのですが、まずは無難に名作と評価されているほうから。


  大きな理想より、ゲームをどうやったら楽しめるか? が重要なの。面白いことには敏感なの。ぼくらは、ゲーム脳なんて言われてきましたよ。協調性がない、って。バーチャルな世界に住んでいる、って。

だけど、大人の世界に夢を抱けなかった。作家を志したのもそのため。夢は、バーチャルな世界にあった。遊びといったら、ゲームでした。特にヴィジュアルノベル全盛期。ヴィジュアルやモンハンや、いまだったらカスタムメイドを遊んできました。

 

  あ、そうか、こうやって引きこもりになるのかあ……もう死んでしまいたい。

 

  リアルの世界で、恋愛しなさいよ、とマツコはマツコ会議にでていた腐女子? の女の子に言っていた。それもそうなのでしょうね。しかし、リアルに居心地の良さはない。と、感じているぼくは、現代のヲタクは、逃避してしまいます。
  ピクシブツイッター、みんなが創作に盛んになってきました。それを煙たがり、叱る大人はいなくなりつつあります。
  現実逃避ばかりの、大人になりきれないまま生きています。もうピーターパンみたいに、子供の価値観のまま、誰かに甘やかされていたい。
うう……このままではいけない気がします……。

虚しすぎる

  漫画を描いていて、今21ページ目になりました。なんか全部描き直したくなる。あるあるなのかもしれませんね。

  内容が間違っているかも、とかそもそもつまないかも、とか余計なことを考えてしまっています。

 

  というか、このブログも面白いですか?。

まあ、なんというか、自分がしょうもない人間であるかも、と思うと書く系のかたは辛いかもです。認めたくねえ、自分がしょうもない人間だということを!。

 

  だから、わざわざ今日も更新。不人気というのも悪くはねえ。だってぼくピクシブに千枚以上絵を投稿しているんですよ(苦笑)どんだけ承認欲求がつよいんだろう。

 ともあれ、不人気故につづけられているところもありますから、どうか末長くよろしくお願いします。

妄想ノート

★まえがき


  わたし。という器があるとする。

  器は、まず肉体の制約がある(肉体こそが器?)。翼がなく、羽ばたくことはできない。羽ばたくということがどういうことなのか、経験できない。それはすなわち、精神的な制約なのではないか?。

 

  それはさておき、社会の問題を考えるときに、この精神的な限界がいかに人生を左右するか。
  人間はひとりひとり違っている。味の好み、色の好み、音の好み。お互いに違っていて、八百屋があり、プログラマがいて、それぞれ社会の一分子として生きている。八百屋がプログラムの組み立てかたを知らない場合に、その苦労はわからない。ただし、その場合に、一人の人間は、ひとりひとり違っていて、相手をわかる、という状態が果たしてあるのか。いや、あり得ないだろう。なぜならば、同じ八百屋やプログラマでも、その仕事中に同じ思いでいる、ということは決してない。完全に閉ざされた個人は、いかなる方法でも同じ想いを抱くことはできない。それならば、個人とはなんであろうか?

 

★ 傷を負った少女
  例えば、愛する母を喪った子供。母は二度と戻ってこない、唯一の存在が喪われた場合。どこに母を見つけられるだろうか? 形としては、すでにどこにもない。ならば、個人の想いのなかはどうだろうか? 想いのなかで、故人は経験しない。動かない。変わらない。つまり、故人は固定された人物なのだろうか?

「笑っている母」や「怒っている母」は、現在進行中の固定された人物なのだろうか? 更新されない情報としてしかないのだろか?


  その唯一の母を個人が抱えているならば、虚像なのだろうか?

 

それとも、もともと他者は自分の想いのなかにしかいないのだろうか?


そもそも、「わたし」という想いが虚像だろうか?。
  わたしとあなたは違っていて、分かり合えないから殺してやる、そうならないために法律がある。だとして、国家同士なら?。

 

  個人が自分の想いと向き合うための物語があるとすれば、それはどんな物語だろう。

 

★語られる物語

  ぼくら人類は、まったく同じ性質、つまり自我を保つはずだ。とめどない雑念の流れがある。つまり、食べたい、疲れた、遊びたい、楽したい、これら「煩悩」は消えない。とまあ、ここまでは小さな話で、雑念の流れのなかに、涙や愛もはいっているとされる。仏教では、愛する、ということも手前勝手な煩悩なのだ。その雑念が消えないおかけで、そこから考えや、行動の「出発」ができるのかもしれない。そして、「経験したこと」は雑念を思考へと変えうる。
従って、経験したことがその人「語る物語」になってくるはずだ。人と人が語り、語られ、さてどこにいくのだろうか?。
  それは祈りなのか?。

 

  妄執を抜けてもらうために、常に祈るようになるのだろうか?。
  それとも、お互いに分かち合えないまま、手前勝手なまま想い合っているのだろうか?。
  聖書や経典は、人々と彼らを救いたい人が教育するためにあった。仏教の世界では経典を読んだり、修行したりできない者に、お経を唱えさせてきた。内容はさまざまだが、般若心経では空を説いている。
  五色が消え去り、何にもない、はじまりも、終わりもない、それが人道だ、と。

  最後にたどり着く地点は、無。無からはじまり、無に還る。死はもっと身近にあっていいのかもしれない。
そして無に還るまでに語られた物語は脈々と伝道してゆく…………。しかし、肉体は?。

結婚について

  母は姉妹とも公務員と結婚した。それは、死んだじいちゃんの遺言、「あいつらは、ボールペン一本で食っておる」と言ったから。母の家系は職人だったから、鉋(かんな)で木を削り、とにかく大変な仕事だった。

サンデーでトニカクカワイイがやっていて、狐の嫁入りに、結婚ものが増えた。既婚ラブ。

 ヲタクたちが結婚する年齢になったのだ(かってに改造にあったように)。

 

 機能不全家族で育ったぼくは、結婚を楽観視できない。仕事があって、自由恋愛のなかで本当に愛せる人と出会い、ずっと一緒に暮らす。これはとても難しいように思える。どこかで破綻して、夫婦どころか、子供も不幸にしてしまうことだってある。

それを考えたら、結婚なんてしないほうがいい、いやそもそも恋愛なんてしない、といまどきの若者たち(とくに男子)の気持ちがわかる。

 

USJ

USJにいってき!」と母に言われたので、行ってきました。画材屋さんで、つけペンとインクを買うだけのつもりだったけど、インプットも大切だ、とのことで、行ってきました。

まあ、一人なんで、ちょっとさみしい。

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  ハリーポッターが目当てで、まだ見たことがなかったから、実際にいってみたら、映画の再現率の高さに感動しました。
  たまたま劇がやっていて、ぼくはミュージカルとか大好きなので、本当に感動しました。

演技から声まで、洗練されていました。
完成高いっすよマジで。

お土産は買いませんでした。物が増えると部屋が散らりますから。
いま、ちょうどツイッターで魔女ブームが来ていて、ファンタジーっていいな、描いてみたいという気になりました。
想像するのは楽しいですから。

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こういう湖があるところで静かに暮らしたいなあ。