さくららい制作日記

こころと創作について

けものと人間

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アイコン描いたからみて。

 

作品の草案。

「世間」のなかで「わたし」は異常であると思っていた。わたしは美しいものを愛し、人を愛し、そして世間もそうであるはずだった。けれど、それは嘘だった。愛するには方法と訓練が必要だった。

  わたしは世間がただ漫然と赦してもらいたい、誰かに甘えたいと願う集団であることに気づいた。だから、わたしは彼らのそんな愛が偽物ではないかと疑った。欲望にすぎない、そう思った。そんな中でわたしは常々人間の醜さや美しさが表裏一体であることを考えていた。美しいものを求めるときには、醜いものを避けようとする欲求がある。ではどうしたらよいのだろう、誰もが救われる方法はないのだろうか?

  わたしにしかできない、わたしという小さな虫けらにしかできない、そんな生き様があるはずだと考えるようになった。「戦争」や「救済」ではなく、わたしはあなたのために全力で考える。それがわたしの物語。

 

これ、だからこそ、醜いものも愛せる、という非常に深い話。

 

………。

なんかあれなんだよねえ、だんだん「キャラクター」とぼく本人が同じになってきている。まえは完全に「キャラクター」として割り切ってたんだけども、もしかして、これが文学の罠ですか?。

http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7810239

って小説を書きました。

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挿絵です。

 

  書き終えて考えたことは、ぼくの「獣耳」って妖怪とかキメラに近いんじゃないかってこと。

  人間にもなれず、動物にもなれない。

 

でも、「犬娘の性的な幸せ」みたいに、誰も苦しんでいない状況だったら? と考えてみると、「小さな虫けらにしかできない」行動ってなんだ? と思うわけですよ。少女がSMプレイしていて、学校で嘲りを受けている。それは「殺す」とか「しかと」ではなく、説得できるか。

  ぼくはこういうどうしようもないような状況や精神状態を知っているけれど、今のところ我慢するか「しかと」するしかできていない。

  けものフレンズのことも含めて、もっと重い人類そのものが抱える問題がありますよ。発達障害の人がどうやってそれに向き合っていけるか、とかね。「ケモノ」や「獣耳」を動物のキャラクターとして扱い、それを愛するという世界への関心、幼児性をもつことへの羞恥心と安らぎといった精神状態とかね。

  日本のケモナー発達障害の人が多いのと、獣耳娘が好きなヲタクの違いは、じつは同じ精神形成の道にあるのではないか? とぼくは指摘する。虫けらの話のあとで、これを言うのもなんだけど、僧侶がよくいうのは「個人を超えたものの存在」これはその精神形成の成熟さを示す観念だと思います。

  ぼくはまだそれがわからないから、こうして作品を書いているわけだけど、ちょっと自分の方向性がみえてきた気がします。

生きるのがつらい

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ハムスター。文章と関係ないけれども。

  生きるのがつらい。おわり。

って一行で終わらせてしまってもいい。それくらい混乱している。書くのがほんとにつらい。でも、書きたい欲望がわき出てきたから書く。
 

  この頃は、生活ペースが安定していた。
昼はカフェでハンバーグを食べて、夜はちゃんと寝る。そんな生活だった。ちょっとその生活ペースが崩れた。夜にスマホをさわっていて眠れなかったり、食事もサイゼに週四くらい通っている。ぼくは家で食べるものがない。親は昔から料理をつくらない人だ。だから、自分で外食するしかない。自炊するには台所が汚すぎる、家電が前時代すぎる。

  昼に決めた場所で食事を採る。ということが日常を固定する文鎮だった。だからその日常にもどさないとね。生活ペースが狂っているから、ぼくも狂っている。あせりの症状がでている。何かしなくてはいけなんじゃないのか? 自分の能力はこの程度か? って。わかっている。それが症状だと自覚しているから、あせる。処理できない感情にあせる。そして疲れる。
こんなことは何度もあった。だから嫌だった。自分を信じられないこと。制御できないこと。自分が不安定すぎて社会に適合できないこと。それが嫌なのだよ………。

ぼくは普通に生きることができないから、異常者になったわけだ。異常者になりたいから異常者をやってんでなくて。どうしても、アニメ観て仕事して、それで一生を終える、ってのができないから、異常者になってる。

「生まれてこなければよかった」

「生まれてきてしまった」

という行き場のないあせりがある。だから、どうしたって文章や作品に「死ぬ」「殺される」「終わる」とかがでてくるのは仕方がないわけだよ。

 

 

障害者福祉と家族についての願い

  これは、説教ではなく願いです。

  NHK番組「この町で生きる 障害者福祉をめぐる模索」観ていた。多動の症状がでていて部屋をぐるぐるまわっていた。どこも似た症状と似た問題を抱えている。家族が支えていること。          

  ドライバーを持ち出して土を掘りたい、と言って外にでたがり、それを不安からか止める家族とそれに不快を仕草をする患者。患者は物事が上手くいないこと、自分の病気にとらわれていることに悩む。番組では、誰かにしてもらうのではなく、誰かに言われて行動するのではなく、主体的な行動をさせることで患者は自信を持つようになる、と教える。

  主体性を持つこと。それは、家族に知識と体力があるかにかかっている。たとえば、暴れる患者や理解できないことをする患者を患者が守れるか。それができないのならば病院や施設に任せるべきではないのか。患者にとっての幸せがなんなのか。それが番組での主体性を持つということではないのか。つまり患者が自分で自分の幸せをみつけられるかどうか。それをサポートできるかどうかではないか? きっと、家族も患者も生きた心地がしていない。毎日が苦しくて、つらい。生きていることが苦行に感じている。それは不幸だ。もう一度、生きていることに喜べるようにならなければいけない。諦めないでほしい。わたしは病気なのだと、これは心の闇なのだと片付けてしまってはいけない。思えば思うほど、無気力になり、怒りに支配されてしまう。まず、わたしにできることはなんだろう。そう考えてみる。あれができない、これができない、とマイナスに消去法で考えるのではなく、あれはできる、頑張ればできるかもしれない、と考える。あるいは、それを応援してくれる仲間がいるとよい。

  人には尊厳というものがある。その尊厳を犯してはいけない。あたりまえのことだ。けれど、それは学ばなければいけない。学んでも、忘れてしまいがちになる。ゆっくり、相手を思わなければならない。人間はとてもよく学ぶ生き物だ。よく人間はおろかだという。たしかに人間は多くの間違いをした。でも、そのたびに多くを学んで、前へと進もうとしてきた。それが歴史というものである。

 

 

絵を描く人間

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  もし絵が描けたら、上手かったら、って願望を持っている方もけっこういらしゃるので、ぼくは「下手でもいいんだよ、好きなものを描けばいいんだよ、大切なのは楽しいかどうか? だよ」っていいたくなる。もちろん、上達して描けるものが増えれば、表現の幅が広がってより豊かな楽しみになる。だからこそ、上達を抜きにしたお絵描きは、物足りないかもしれない。
つまり、「ああいう絵が描いてみたい」という願望そのものが、絵描きを育むのだ。そして、その願望は感動にあると思う。世界への関心、世界はどうして美しいのか、理不尽なのか、楽しいのか、カッコイイのか、それが感性に訴えかけると思う。つまり、本質的には、その思う心が源流といえるかもしれない。つまり、その思う心を育むことが、絵描きの上達につながるのかもしれない。それは、優しさだと思う。とても、とても深い優しさ、思うという人間が人間たらしめる能力。人間は美の生き物で、絵は優しさに包まれている、芸術はどんなにリョナを描いても、暴力表現をしても、その力から脱却できないのだと思う。より強く、より優しさを持って、描こう。

  ダ・ヴィンチの作品には、その優しさがある、母を喪った哀しみと、母を慈しむ思いがいる。それがダ・ヴィンチを巨匠たらしめているはずなのだ。思いの強さ。もし、絵が描けたら、ではなく、あなたはすでに描いている、心の中ですでに描いている、それを忘れないでいれば、きっと道が開かれていくのだろう。

ぼくの文学とは

  ぼくの文学。
  ぼくは人に誇れるほど本を読んだわけじゃないし、誇れるほど書いたわけではない。そりゃ日記は中学生時代から小まめにとっていはするがそれはあまり負荷のかからない行為だ。ただし、もちろん、書くことは大好き。
  ぼくは引かれそうだが、ASMRとかボイスドラマが好きで以前制作したことすらあった。
そういう「音の響き」つまり語感がぼくの文学を形作っている。そしてはっきり断言するが、音の響きだけで物語がおろそかでも可である。ということはいたるところで書き散らしている。まあ、とはいっても、ぼくにそんなたいそうな国語力があるわけではなく、得意ではあったが、やはり誇れるほどではない。以前にもブログに書いたが作文を褒められたことはないしね。

 

  ぼくは自分が倒錯的だと思わないのだけどまわりをみればそうなんだろうなと思わざるを得ない。服装とか、音とか、色や形に。異常な関心がある。いってみれば、それだけで、なにか問題を提示するような高尚な文学性は帯びてない。だからか、ぼくは妙に文体に凝ったりはあまりしなくて、語彙力などじつは気にもとめていない。

 

  文芸は何歳からでもはじめることができて、かつどこまでも登っていける技能であるから、ぼくはとくに精神苦痛者の癒しとして、身につけることはじつは肯定的だよ。ピアニストがピアノを弾いているときに、精神がある種の超絶に満たされて、苦しいとは思う余裕もないように。それはもうねえ、文芸に熱意を持って打ち込んでいるんじゃなくてね、こういう表現があるんじゃないか? と模索する、パズル的な快感でやってる。理性と感性があるならば、ぼくは非常に感性的な人間だけど、ロマンチストだけど、ゆえにその夢見がちな部分を恥ずかしがって、努力で理性的に振舞っているのだ。ぼくは感性の人間だよ。

  ぼくはねえ、許容できる範囲が広くて、男性向け作品から女性向け作品までをあまり気にしない節があって、事実ショタコンなのだ。
やはり倒錯的で感性の人間といえる。
  ぼくの友人なんかは優等生タイプでなにかしろの具体性と計画性を常に備えている。繰り返すようだが、ぼくは理性を努力で捻出しており、プロット作業なんかは苦痛だ。神話になぞらせる、とかここの伏線がのちのち生きてくる、みたいなことは、できるんだけども、それがぼくの文学だとは思えないし、本質部分で大きくそこに拘る人とは食い違っている。人間の食べる音、泣く声、笑う声、喋り方にぼくの文学の源流がある。偉そうにいえば、それがぼくの文学が人類の永遠性に触れている部分で、つまりそれがある種の才能なのだろう。ぼくは今、そういう理性部分を骨組みに感性を解き放つとんでもない倒錯的な作品を構想している。
  ちょうどねえ、こういう小説をスーパーのフードコートで書いた。

http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7793784

これは綺麗に汗ひとつみせない作品なので気に入ってはいる。

 

  ぼくの文学は音楽なのだ。歌なのだ。
  ぼくは優等生タイプじゃあないんだよ。あたまは悪くないが、そういう努力は苦痛だ。
じゃあ声や音の響きは下等なのかと言われると、たぶんそうじゃない。なぜならばほんとに下等ならもっと排他的になるからで、そこに流れるような対話の精神はない。
前にぼくは読者に配慮しないと書いたがそれは歌の文学の潔白さを保つためだ。
なのにどうしたことか、ぼくは破滅へと向かってしまう。生活でも、文芸でも、とにかく破滅へと向かってしまう。だから、いっそ破滅させてしまおうと思うわけだ。
ぼくの創作の旅はどのように終わるだろう。
どこへたどり着くだろう、そこに興味はないでもない。

理性、緻密なグロテスク

  これは十九世紀に描かれた「絵」です。もしかしたらウィキペディアなどで見かけたことがあるかもしれません。異常な緻密さでヨーロッパからアジアまでの風景が描かれています。正確には版画です。

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それに。

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  インドも物凄い。

これを見ていると、日本人はなんと非理性的、非作業的なのだろうと、感動するのです。

  ミラノのドゥオーモしかりゴシック建築の綿密すぎる建築物というのは人工性の(すなわち芸術的な)一番上のところに来ちゃっていて、日本人には馴染みにくいかもしれない。

  しかし一時期友人がロココっぽい過剰装飾に傾倒していてそれが童心をくすぐった。老いてきたらいやになるかもしれんが、過剰性ってのは童心をくすぐるものだ。西洋での理性の、知的作業ってのは、ちょっと「引く」ンだけど、同時に憧れる対象でもある。

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  ロココといえば、こういうのがソレ。美輪明宏とか三島由紀夫が好きだった様式。

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服装とかね。

あとバロック

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もうね、呆れるくらいゴテゴテ。

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こういうのとかね。荘厳であり緻密であり。

まあ、こういうのがない国で生まれてよかったと思わなくもない。

 

 

 

ブレイブリーセカンドやってるぜ

  中古で九〇〇円だったので、ブレイブリーセカンドをはじめてみた!

  前作のブレイブリーデフォルトが面白かったから期待。んで、さっそくプレイしたら、バトル画面で、仮面の男が前作の強キャラをいともたやすく撃沈させてしまう。そのバトルは「デフォルト」とか、数ターン前借りするシステムを駆使していて、ああ、こういうゲームだったな、と思い出した。全員撃沈させられ、前作ヒロインであるアニエス様が連れ去られてしまう。目の前が真っ暗になる。

死んだかと思った少年ユウくんはなんと生きていて、しかも回復が尋常ではなく早かった。

ユウくんはすごい純情(良くも悪くも短絡的)ですぐにアニエス様奪還に向かう。

……てのが冒頭。

 

  今はまだはじめたばかりで、これからって感じなのだけど、凄まじくグラフィックが綺麗なのよ!

古き良きJRPGの正当な系譜の上にある、ファンタジー。

ユウくんとその仲間たちの会話が面白い!

ああ、クリアするのがもったいないなー。

(ユウくんの屋敷にメイドがいて最高だった)

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ユウくん。

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ユウくんの自室。