さくららい制作日記

こころと創作について

ある連想には

  この頃、漫画(小説も)でぼくが見たいなあ、と思うは、ある何気ないコマの絵が、どこか別のイメージに直結している感覚です。

って言ってもわかんないだろうから、例を挙げると、少女の優しさに母の姿を見る、とか。それはおままごとかも、そんな感じ。
  その人が見て来た世界が、再現されたとき、何か印象に残っていたわけで、その羅列が作品世界なわけです。こういうのを象徴に到達する、とも言えるのかもしれない。できれば、漫画でそういうのが見たい。
  ぼくも描いてみたい。

 

関係ないけど、メイドの雑記です。

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「人間」になるために煙草を吸うべきか

  ホテルで一時間くらいしか寝られなかった。九時半にチェックアウトし二十一世紀美術館で友人と待ち合わせ。
 

  金沢では電車の代わりにバスで移動する。
二十一世紀美術館は待ち合わせこそしたものの拝観せず、近くの金沢城公園へいった。
  金沢城公園では新たに玉泉庵という庭ができたらしく、お茶と和菓子を食べながら観た。
玉泉庵は「立体的な」庭らしく、たしかにゲームのダンジョンみたいだった。

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ああ、あの辺りにアイテムあるだろうな、みたいな話をしていた。
和菓子は白あんでほのかに甘かった。洋菓子系の砂糖の甘みではなく、餡子の甘みだった。作法的には、まず一口か二口でたいらげ、そのあとお茶を飲むらしけど、もったいないので、ちびちび食べた。
  お茶の方は苦くて濃かった。
  昔、作法がなってないことを将軍が左遷の理由づけにしたらしい。よくは知らない。
その他庵でなぜか英語表記のパンフレットを入手。友人は簡体字のパンフレットを入手していた。

 

  玉泉庵を後にし兼六園へいった。

観光客が多くてあちこちでガイドが解説をしていた。友人はガイドが嫌いな様子。
「自分が感じる前に説明されるのが嫌」
とのこと。
ぼくは説明を聞いたり読むのが好きだから、この考えはわからなくはないけど、ぼくは違うな、と思った。
ぼくは説明を聞いてから妄想を膨らませる。
で、兼六園の中でも和菓子とお茶をいただいた。ドロドロの羊羹に栗が入っているみたいなお菓子で凄まじく甘かった。

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そこで、うちの子について話をした。
「うちの子ってなんなの?」
ぼくは
「うちの子ってのはうちの子だよ。自分の世界を写したキャラクター。概念。それをツイッターとかでは描きあったりして、創作しながら交流する」
で小一時間くらいうちの子の話とか、キャラ造形の話をしていた。わりとディープな話をした。
  兼六園を後にしてカレー屋さんへいった。
スパイスと野菜が香るヘルシーなカレーだった。友人のおすすめらしい。

 

  大学卒業して自由になったけど、いざ自由になってみると何もやりたいことがない、空っぽだ、って話を聞いて、「じゃあ、さんざんゲームしたり旅行したりしようぜ」って言ったら、曖昧な顔をしていたように思える。
今まではやることがどんどん湧き出てきたけど、なくなると何をしていいかわからない、「自分」がない、という。
「自分」がないから、何も目標もないし、やりたいこともわからないし、って。
んじゃあ、「自分探し」をしよう。
いろいろ体験してみて感じることが大切だ。

それから駅前のスタバにいって大阪発まで一服。

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なんか「煙草を吸ってみようかな」とか言ったから、「肺悪くなるよ」と忠告しておいた。自分がないからか、煙草を吸えばすこしは精神的な動きがでてくるのかもしれない、それはたしかにおよそ感情というものが死んでいる友人にはいえた。

ぼくは煙草を吸う予定はない。健康主義者なのでね。

ぼくらの世代で喫煙者は少ない。世間はどんどん健康主義者になっていくから、煙草を吸う人が減った。煙草は、時間を吸うものらしい。つまり、煙草を吸う時間が増えてしまう。

ぼくは煙草には反対しているけど、こうも感情の起伏がない人をみていると、煙草の快楽をいれてやったほうがいい気もしてくる。

何も楽しくない。だから、単純で強度の強い快楽に接続する。ってのは、わかる話ではないだろうか。人生が煙草に侵食されだしたとき、はじめて人間になれる場合もあるのではないか?

つまり、「煙草は人間になるためのもの」なのかもしれない。

 

時間になり友人と別れサンダーバードに乗った。

金沢 ミッドナイト

  サンダーバードで、けものフレンズを観ていたら、あっという間に金沢へ到着した。

  けものフレンズ、別にIQは下がらない。むしろ大いに好奇心を掻き立てられた。あの、手描きに似せている3Dは手描きでは難しい模様とか、複雑な服装を動かすことができる。

アルペジオの3Dはなんとなく人工的だったのを思い出す。それと比べると随分自然に感じる。

動く快感がある。しかも、日本人のやり方で。アニメの伝統を守りつつ。

 

  あの中ではトキさんとかばんちゃんが好き。

カバさんはああ吉崎先生だな、って感じで、オリジリティの視点からは好きかな。

 

  金沢駅に着くと、雨だった。いや、雨が降ったり、止んだりという感じ。

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  金沢の夜はすごく寒くて暗い。このとき友人と待ち合わせをしていたけど、何故だか一切連絡がない。ひとまず宿へチェックインを済ませる。そこは外人がよく泊まっている宿。安い。タクシーの運ちゃん曰くこういう安い宿は長期滞在する外人がよく泊まるのだとか。宿の部屋はえらく寒く、精神的に不安定になる。暖房の効きが弱い。眠ろうと布団に潜っていたけど寒くて不安定で眠れず。ポットでコーヒーを作り飲む。すると友人からラインでメッセージ。どうやら寝てたらしい。

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友人が宿の近くまで迎えにきて、ミッドナイトの金沢でラーメンを食べたり、カラオケに行ったりした。友人はちょうど二日前に卒業したばかりだとか。

 

  だらだら漫画の話をして盛り上がった。

ピクシブや同人界隈が活発だけど、漫画界の水準が著しく向上したわけでもないよなあ」

とぼくは自分の業界感を述べた。

 

  ぼくは夜ふかしをしているうちに、なんとなく浮かれていた。そうだ、こうやって誰かと創作のこととか話すのは、随分だ。

回しゴマという、交互に描いていく遊びをやった。これは昔からよくやっている遊びだ。

ぼくは先手です。

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たーのしー。

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なんじゃこら。あーでも、こういう軽いノリのコメディはずっと描いていたい。

 

  今日はイトコの家に大阪バアムを届けて、東山へいこうかな、と考えている。

精神状態はまずまず。悪くはない。

ただ、夜ふかしをしたから寝不足だ。

 

 

 

ぼくは無能だと思う

ドキドキ。

  今日は金沢へ。二十一世紀美術館へいってから、夕方にはチェックインして、夜には友人と落ち合う予定。
なんかドキドキしています。
理由はわからない。
体調が悪くなって、胸が苦しくなって、観光どころではなくなるかもしれない。不安で苦しい。
  漫画は創作意欲があるんだけど、それ以上に胸が締め付けられて、どうしていいのかわからない状態。一応、「メイドさんもの」と「獣耳アクションSF」は考えてる。書くこと自体はあまり問題ではない。つまり、ぼくの作品なんて、つまらないと感じる人が多いということ。見せたところで編集さんにまた否定されるだろうし、同人でだしても、まったく売れないんだろう。今まで性格のせいもあって、人格ごと否定されてきたから、意欲減退している。
このドキドキした心で、クオリティの高いものを生み出すのは極めて困難。
  映画も観てないし、読書もぜんぜんできてない。「ユナステ」しか読んでない(まだ読破してない)。
  どうすれば、もっと気楽に楽しく創作していけるだろう。

  ぼくは将来への不安で胸が苦しくなる。
自分の能力への懐疑が強い。ぼくは馬鹿で、体が弱くて、能力もない。って観念。IQテストで高得点をマークしてるし、重たいモノを持ち上げられるし、ピクシブでランキング入りもしたけど、そう思ってしまう。
結局は、脳の異常から不安がきているのだろう。

 

多様性という言葉を口にする人がいるが

  真っ暗な部屋で眠ろうとしていたら、余計なことばかり考えてしまって安眠できない。
 

  多様性だ、人それぞれだってみんな口を揃えだしたが、ぼくは納得できないんだよね。というのは、それはリアルじゃない。他人と仕事したりする。仲良くしようとする。でもそれは、友人関係じゃなく、上面で相手の言葉に従うことでしか成立しない。だから、多様性っての自由に自分をだせることじゃない。ほんとうに自分のやりたいことをやって、好きな人と話して、そういうことができる仕事ってないでしょ。ほとんど。そんな世界で生きているのに、多様性だと言われたって、それは偽りでしょうよ。その多様性って言葉には、ほんとうのいろいろな人材が自由に生きる意味ではなくて、今や相手を拘束する言葉と化していることにもうみんな気がついてるんじゃないかな。同じように、「自由」もその偽りがある。だって、人間は嫉妬深くて、欲が強くて、相手を支配下に置きたがる。他にも名誉とか実績を気にする。それがコミュニティを形成している。なのに「多様性」「自由」ばかり一人歩きするしているのはおかしなことでしょう。そんな中で、「マジョリティも多様性、マイノリティも多様性」って認めたって、それは空論じゃないか。たしかにそこから生まれてくるものもある。そういう話をされた。ぼくはなんだか腹が立った。無責任すぎると。マジョリティがマジョリティを生み出すことを多様性としても、結局は個人単位ではみんな孤立していて、そこに着目しなきゃいけないんじゃないのか。

  何度も繰り返すけど、多様性って言って人を追い詰めないでほしい。それは自分だけでは実現できないんだよ。

  ほんとうに語らなければいけないのは、個人たちがどうすれば自分を大切にできるか。その点じゃないの。ぼくはむしろそこが大切だと思う。自己の確立、もっといえば自己の精神とどう向き合えるか。でも、短絡的な人間は精神について向き合わない。それは社会で生きる上で自分はいいけど、他の人を傷つけていくことに他ならない。そういう人がいるから、ぼくは人間が嫌いだし、社会に適応できなかった。社会を憎んだ。これはぼくだけじゃないはずだと思う。どんどん個人を尊重しよう、個人単位の幸せを掴もう、といろいろな趣味があるのに、人間たちはいっこうに変わらない。自分というものを持たなきゃいけないことと、それが不可能な世界とのもどかしさにじっと我慢している。多様性だ、大衆文化だの流行だの、売り上げたの実績だのに執着する社会に。

  結局ね、人間はやっぱり多様性なんか認めないんだよ。そういうことだろう。自分が愛するものを愛していく。いや、自分を愛する。はじめからそうであるように。

  愛するとはなんだろう、つまり、だからこそフロムが書いてる、愛することは与えることである。ということなんだろう。理想を言えば、人間同士が愛し合う社会が実現するかどうか。どう暴れん坊な自分と向き合えるか。それはわかんないけども。ああでも、それは話を聞くとかその次元でも実現するそうな。フロムによれば。たしかに誰かの話を聞く(受け入れる=与える)のは愛のひとつかもしれない。人それぞれだとバラバラにする多様性という言葉は今のところ理想論だけど、ほんとうは「一緒になろうとする精神」の方が愛の法則が働きより多様な世界を生み出す。

  一緒になろうとして、人間を知ること、それが神について探究することならば、現代日本では神は信仰されなくなってきたけれど、それと似たようなことをやっているわけだね。

 

クオリア

  人間らしさが感情の豊かさといわれても、ぼくの心が豊かなのか計測しようもない。そもそも計測なんか不可能だろうと思う。

  たしかに計測できるもの、つまり論理的なものは、人間がAIに敵うことはない。計測できるものはその範囲からでない。これもわかる。ただし、では人間にはそれが必要なく、豊かさが人間には必要だ。ってのはわかるようで、ぜんぜんわからない。

 

  ぼくは自分の心は豊かですよ、とはとても言えない。そもそもこの問い自体が人間に値段をつける、価値の査定にしか考えられない。そもそも人間は価値判断でしか評価できない生き物じゃないのかなあ。で、その生物の性質上でわかりやすい計測できる価値判断が登場したが、それを全否定するAIがでてきて、人間って心の豊かさが大事です、といわれても、どうすりゃええねん、って感じなんだけども。まあ、それが「オレがいいと言ったらそれはいいもんなんだ」みたいな、先進的だけどある意味原始的な初歩的な判断になるんでしょうね。

 

これ、ヲタクマインドじゃないかな。

 

  人類の成長はヲタクになること、ってことなのかなあ。マスにしても(アニメはマス=大衆 かはさておき)厳密には趣向はわかれるでしょ(艦これでも、けもフレでも好きなキャラやその声、仕草は違う)。

  おじゃる丸のかずま的ななんでもない、ただの石ころあつめるみたいな趣味は、あるいみ未来的なのかなあ。

  赤は赤でも、この人がつくる赤が好き。みたいな気持ちはあると思う。まあ、これが本題ですよ。色の選択は鍛えられるけども(初心者が選びやすい下品な色は知識と経験で上品になる)、色の好みそのものは別だと思う。

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ネーミング扇子

  けものフレンズが流行ってる。
ぼくは一話しか観てない。というか観れない。こんなにブームが来てるなら、観ようかなあ? とか少しは思う。
まあ、他に読みたい観たい作品があるのでそちらを優先します。

 

  作品の登場人物の名前は、筆が進み具合に影響を与えてしまう。名前がテキトーだと、なんだかあとから気に食わなくなって歯痒さを感じてしまう。だからいい名前をつけたい。たとえば「シャーロック・ホームズ」はいい名前だろう。こんなふうにネーミングは実は重要だ。人によってはここで粘り有名作品からオマージュしてみたり、アナグラムにしてみたり、キャラの性格やもっいえば、そのキャラの宿命から皮肉を込めつつネーミングしたり(これすきだ)。でもぼくはずさんなネーミングばかりなのだ。銀の髪だから「シルバーちゃん」とか、桃から生まれた桃太郎的でそのまんまで捻りがなかったり。まあ、まんまだからこそ、イメージを連想(繋げる)することができるってのもある。だから鈴木さんとか、小林さんとかなんの関係もない名前をつけることは、ぼくはちょっと苦手だ。まあ読むぶん見るぶんはいいけども、なんとなくイメージを連想できないことに人工性や作品の構築美を感じられない。まあ、そんなの必要ないと言ってしまえばそこまでだけど。