映画 美しい星
『美しい星』を観た。
長いぞ、すごく。長時間淡々と進む読書しているような気持ちになる映画。よくある大作でCGばりばりの大迫力に圧倒されるのもよいけれど、観ていてゾクッとするようなカットがあった。ぼくとしては好き。
余韻がある映画……というよりか、なんども思い返すような映画(原作が原作なだけに)。もういっちゃいますが(そして知っていた方が面白いと思う)地球VS人類みたいな話です。
必死に訴えかけている姿が滑稽なのは、滑稽ゆえに観客と地球を対峙させて、あの政治家は観客の代弁者になっているからだろう。
誰もが滑稽だと笑い、どうでもよさそうにして、相手にしないようにし……人間のあまりに汚い姿に気がついたとき、美しい星になるのだ。
これは林檎です
🍎林檎だ!😻
🍏林檎! でもまだ青いな😿
🏙
ーー二〇一七年東京。
🙍♂️これがなにかわかりますか?
🍎絵文字です😾
💁♂️だんだんこの世界の真理を理解してきたようだね。
💁♂️🍎林檎だと思っていたものはただの絵文字に過ぎず、私たちもまた絵文字に過ぎないのだよ。
😾この世界のすべてが二次元でしかないわけですね。
🙎♂️そう、だからこの世界を救うために、三次元空間へ移動しなければならないのだよ。ホンモノの林檎を手に入れるために、ね。
◆学ぶ
………………。
😾ぼくも東京で学ぶまえは、林檎は食べものとしてしか見ていなかった。だけど今は違う。
👨⚕️次元移動装置は完成しました。あとはスイッチを押して、次元の穴をくぐるだけです。
😾えい(ポチッ)
ファーンファーンファーンファーン
👨⚕️大変、次元の向こうから侵略者です!
🙀ど、どうしよう!! だ、だれか!
👤クククク
🙀あ、あなたは!?
🙋♂️ご苦労だったね。手間暇かけてついに次元移動装置を完成させたとは、飛んだお馬鹿さんだ。
🙀なにを言っているのですか??
🙎♂️私の正体を明かそう。
🦋🤹🏿♂️🦋
私の名はオブライエン
🙀オブライエン!? 蝶野さんでは?
🦋🤹🏿♂️🦋
それは世を忍ぶ仮の名だよ。
私は次元と次元をつなげる者。
わかりやすくいえば、超越者……人は神と呼んでいる。
🙀神!!
🌌🌌🌌🌌🌌🌌
🌌🌌🌌🌌🌌🌌
🌌🌌🌌🌌🌌🌌
🦋🤹🏿♂️🦋
この異なる次元を統一したとき、宇宙の秩序は護られる。
超高度文明のテクノロジーの魔の手によって宇宙の生命が皆滅びかかっている。
生命たちの逃げ場を生みださなければいけないのだよ。
👱一方そのころ、街は次元移動装置によって生まれた穴から出現したエイリアンの攻撃を受けていた
👽👽👽👽
💥💥💥💥
🌃🌃🌃🌃🌃
👨✈️ッ!! 我々の軍事力では太刀打ちできない!!
👨⚕️大変だ!! しかし、どうすれば。
ん?
🍎
👨⚕️そうか、林檎だ。林檎を記号ではなく、林檎だと誤認する装置を開発すればいいのだ!!
👨⚕️林檎だと誰もが思うようになれば、もはや次元移動を試みることもなくなる。すべての次元に林檎装置を使って疑うことができなくしよう。
◆VSオブライエン
🦋🤹🏿♂️🦋
準備は整った。
すべては救済される。
🙀さ、さいあくの事態!!
👨⚕️これを受け取りなさい!
✨💎✨
🙀これは!?
👨⚕️林檎装置と名付けたものです。それを次元移動装置の穴へ向けて起動させてください
🦋🤹🏿♂️🦋
させるものか
😹思えば、蝶野さんがいなければ、ぼくは一生ずっとずっと林檎を食べものとしてしか見ていなかった。すべて蝶野さんのおかげだ。たとえぼくを騙していたとしても、真実を教えてくれた。ありがとう、ごめんなさい。
🦋🤹🏿♂️🦋
やめろやめろやめろ
ーー起動
✨✨✨✨
✨💎✨✨
✨✨✨✨
◆これは林檎です
🍎林檎だ!!😻
🍏林檎だ! でもまだ青いな😿
😿…………
😿…………
😿…………ぼくは………
🍎🍎🍎😹林檎だ!! おいしいなあ!!
🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎
FIN
一〇年間でどれくらい成長したか
ひとはどれくらい描けばうまくなるのでしょう。
今回は、ビフォーアフターネタどすえ。
これは、中一の頃に描いていた漫画のキャラです。
青髪に赤鉢巻、ボロの服に手には鍬が。
なんじゃこれは、と思いました(我ながら)。
ただ、このファンタジアでプロレタリアのモチーフを使うあたりは、今とまったく変わってません。
ホームズはただじっとしているのだが、そのとき脚をたてるので、愛用の緋色のパンツがみえてしまう。しかしそれより、わたしにしてみれば、探偵をするには、まだ一三はいささかはやすぎるのではないかと思う。
「ワトソンくん、東洋には少年が探偵の本があるそうじゃないか、ぼくは本は読まないがね」
で、こっちは今日描いたホームズ。
だいたい一〇年後なわけです。この間にぼくはらくがき含め約総計四〇〇〇枚くらい描いたと推測します。雑なものから、きちんと彩色を施したものまで、それなりに多いです。
見比べてみると、さすがにこれだけ描けば、すくなくともすこしは上手くなるのだと言ってもいいのではなかろうか。
今、想うに絵の練習の仕方や知識というよりも、実際に描くのが一番成長する機会を与えてくれた気がするわけです。それと、ぼくはこの一〇年間で、たくさんの作品を観たり読んだりしました。そのインプットあったから飽きずに描いてこれたのだと思います。
まず、観る。読む。経験する。
それを実際に描いてみる。
これに尽きると思うのですね。
Into the おっぱい
村崩壊ネタはすでにやったが……飽きないので。森の奥深くに棲息する獣耳たちの一族は、ながく近親相姦を繰り返していた。……という世界観がまずあり、そこに一族の娘を売りとばそうと人間が村を焼く。男たちは射殺される。娘としてじつは一匹可憐な男がおり、血族を絶やさぬために……。
わたしのママが鉄砲の弾で頭を撃ち抜かれたのは、まだわたしが男だったころ。どうしていいかわからず、ママが犯されているのをみていたら、不思議な服装の人たちが、わたしの手をひいて車へおしこんだ。姉と妹、親戚の娘たち、男はわたし以外にいなかった。
わけもわからず、泣いている娘と、お腹に精液をそそぎ込まれてうなだれている娘のなかで、何日も閉じ込められた。ガタガタとうるさいおんぼろの車だった。
わたしたちが連れてゆかれたのは、お酒を飲んで、軍人たちの相手をするテントで……すぐに男だとわかってもらえたのに、わたしは愉しまれた。
その後の展開。
軍人を殺害する→大学で保護される→毎日精液を搾取される→自己が崩壊する→大学で殺してまわる→快感が忘れられなくて娼婦になり毎晩踊りつづける→ママ、ごめんなさい。
最後のセリフ
男はいう
「おっぱいのみたい」
「のみなさい」
わたしはいう。
完
失明したこと
兄が眼球へ割り箸を突き刺し、失明した。
いろいろと、怒りや憤りがあって、そうなってしまった。
少し前、閉鎖病棟から開放病棟へ移り、ようやくよくなってきたかと思われていたころの、突然の電話。
「そうか、ついにあいつやってしまったか……」
ぼくは答える。
父母は気が動転していた。
この前、閉鎖病棟へぼくが面会しにいったことが、嬉しかったらしい。そのことで、すこし穏やかになった。
「わかってくれるのは、おまえだけだ」
と言っていたのを想い出す。
ぼくはいつからか、誰が悪い、誰が善い。そんなことよりも、なぜ人間はこうも苦しまねばならないのか、その答えを求めていた。
まずは相手を否定しないことを枷として、実践してきた。
この発言は馬鹿だ、とか。
この行動は滑稽だ、とか。
単純にとらえてカーと顔を真っ赤にしているのは見ていられないたちで、だからといって、冷めたふりして、「へっ無知めが」と内心で嘲るのも厭だ。
閉鎖病棟での生活はどうやら上手くいっていなかったようで、担当医は開放病棟へと移動させたのだ。
そこにいろいろ問題があるのだろう。
けれども、その医師の配慮が、優しさが、ときに人間をよからぬ方へ墜としてしまう。
暴れていた兄をぼくは止めに入り(寝ていた)、怪我をした。
その後、別の場所から警察へすぐ連絡したので詳しくないが、兄は父を馬乗りに殴り、青あざをつくらせ、自分で自責してしまっている。
……警察は「私たちではどうすることもできないんですよ。現行犯でないと、連れていくこともできない」とのことで、頼りにならない。母もびーびー泣いたりするばかりで、なんの頼りにもらない。
……ともかく、緊急な場面ほど落ち着くことが大切だ。消防へ連絡し、疲れてひっくり返しになった兄を担架で運んでもらった。
そして、失明である。
ぼくはこれからも家族を支え続けなければならない。
「あんなこに生まれてしまったから、病気だから」
と父も母も誰もが言うけれど、ぼくは
「そもそも、ニコチンの欲求があるから、それの苛立ちがあったんじゃないか。だから、タバコがなければここまではならないはずでしょう。つまりは生まれながらこうであったわけではないじゃないか?」
なるほど、と納得していたようで、どこまでわかってくれたのものか。
家族。いや、人間が理性的であるにはどうすればいいのだろうか。
恩師の先生はガンで、飼ハムの寿命も近い。
生き物は死ぬ。
祖母は九〇を超えている、兄は隻眼、父母は怒るか泣くかで疲れる。
友人たちも見栄っぱりで、遊んだり、インテリぶったりしているし……。
ネットでは下らないお笑いごっこをつづけられている。
なになに、「でも幸せならOKです」がパロディに使われて、爆笑モードにはいっている。
相変わらず、よくそんなことで笑えるものだ。
まあ、幸せならOKである。
そんなこんなで、まわりに頼りになるような人がまるでいない。
しっかりしなければ、と自分へ言い聞かせる。
メンヘラで怪我をしているのに、支え続けなければならない。
ぼくは、それらヘラヘラした人々を嗤っているのではない。虚しいのだ。自分とは関係のないことだと思い、どこまでも堕ちてゆく、それなのに、いざ自分の身にふりかかれば吐き棄てるような言葉を使う。
虚しいのは、それだけ生きることが得意ではないからなのかもしれない。
メメント・モリ(目だけに)。
死を想え。
人間は進化の過程で死をはぐらかすようになった。有限だと知りながら、無限だと信じる。
二二歳の若輩者のぼくは、小学校の頃に新聞にも載った事件に巻き込まれている。
だから、早い段階で死を自覚してしまった(早スギィ)
だからそのとき誓ったのだ、誠実であることを。
さて、きな臭い話しをして申し訳ない。
しかしこれはなにも身内の悲劇を書いたわけではないのだ。
ぼくが伝えたいのは、常に冷静に考える覚悟と、物事を疑いつづける誠実さだ。
血が流れたって、大切な人が死んだって、リョナやら母子輪姦の作品を書きつづけるぼくのように、この世の中の不道徳が、必ずしも人間の不名誉ではないことを訴えつづける、覚悟。
(これを読んで心拍数が上がるならばうれしいが、まずあたたかいお茶を飲み、考えることをしてもらいたい)
ガンで悶えながら死ぬのも、ナイフで首を裂いて死ぬのも、おびえるようなことではなかろう。泣いたって、怒ったって、なにも変わりはしないのだから。
…………明日のために、よく学び、よく食べて、よく運動し、よく眠る。
今を生きること。死から逃げないこと。