さくららい制作日記

こころと創作について

太陽の輝く朝に

あのですね、僕が集団もとい他人との共同生活から脱線してからぼっちマンと化し、すでに3年近く過ぎているのですよ(居酒屋で働いてた期間や大学で過ごした数週間を除くと)


これは世間的にはマズイのだけれど、僕はなんの問題がない。孤独感がないわけではないし、人間好きなんだけど他人と過ごさなくとも元気なんですよね。なぜか。

生活に関しては、寝て寝て寝て、食べて映画観て読書するだけ。

一応は創作する人間ではあるものの、切羽詰まるなか努力する感じではないです。

自分の好きなものを描いているだけであって、他人を喜ばそうなど少しも思ってない。

自己内完結しちゃっているわけです。

幼少期から僕は人の話を聞かないとよく云われましたが、理解できないわけではなく他人を認識できないのです。つまり、他人の存在を脳が意識出来ず、言葉だけが分析される。

そんな人間だから、文芸には適性があるのだけどその他がからっきしダメ。

これらについて、嘆息することはない。


…………。

こんな人間だけど、考えたりアイディアをだすことは秀でていたから先生や教授は僕に「変な仕事(一般的な仕事)に就かないで10年ほど勉強してみればいい」とおっしゃった。

その言葉通りとはいかないけれど、毎日グータラしながらも本を読んだりしている。

人と人は本当の意味で分かち合えないし、他人はいるかわからないし、結局のところ最後は必ず死ぬので自分が幸福だと思うことをやればいい(その幸福には経済的余裕があるほうが望ましい)


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勾玉

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綺麗なものなかに汚いものを混ぜればいいと聞いた。

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こわい先輩

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4月にカマキリはいないのでは?

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流行りのヘスティアちゃんもどき


……と、まぁラクガキ。

そのうち、マンガや映画におけるレイアウトのことを書きたい。


ブッダ「悟りました」

クソ「それを証明できる?」

と書いたところ、どういうことなのか気になった人がいたので解説を書く。



「証明する必要はないのでは」という主張もあるだろう。
『証明できる?』
は、哲学入門者?の最初の疑問でネットでよく見かけるから、ブッダとの対話という体裁をとり考えて欲しいと思った次第。
(ブッダとは苦のない世界にいく方法を知っている人、という意味で「私」「私のもの」という意見をなくせと言ったらしい)
『汝の隣人を愛せ』という言葉からどれほど高度な学問が発達することだろう。
これらは、僕の意見ではない。
……ところで、完全に完璧な絶対の証明などあり得るのだろうか?。
懐疑主義の答えはどうだろう。
それらを諦めたところから始まるのだ、と意見もある(つまり、これが哲学の出発点であり悟りと似ているかもしれない)

若干、理解に時間がかかりそうだけど分かりやすく説明したつもりです。

それでは次回の更新まで!。