さくららい制作日記

こころと創作について

TVではいえない話

梅田のヨドバシでフィギュアを見ていた。

きんいろモザイクに登場するアリスのパンツが何色なのか気になって覗きこんでいたから、側からみればヤバイ人だっただろう。


それでヨドバシで販売しているアリスちゃんフィギュアとAmazonでの価格を比較したら、Amazonの方が3倍近く高くてイカレてた。

後でフィギュアのレビューをみたら水着だからパンツもクソもなかった(吾輩はアホである)

いやぁ、覗いたときは確かに白だと思ったんだけど、店の照明のせいだったみたい。

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落書き。僕は金髪が大好きで、西洋風な雰囲気を好む。この絵は3年前に僕が描いた読み切りを参考にしたんだけど画風が少し変わったようだ。

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で、これが3年前の作品。

この時期は結構忙しくて、切羽詰まりながら精神的にも余裕がない状態だった。

だから画風にも現れていると思う。

けれども、頑張っていたことは事実でそれを忘却することはできない。



話題が変わるけれど、ある筋から業界の裏話を聞いて考えさせられた。ネットには書けないことなのだけれど、いわゆる『虚構』のことだ。

TVなんかで報道されている番組など、あれはすべて演出かも知れないと思っていた方がいい。事実、というのは実に掴みにくいものなのだ。

映像はカメラを通して報道されるわけだけど、その間に必ず人間が手を加える。それも、もしかしたらカメラで撮る行動自体が『虚構』だとさえ疑えることができる。

撮るべき対象を“演出”している場合が実際に多くあるのである。

なぜか?事実とは(前述したが)実に掴みどころがなく抽象的で、視聴者に分かりにくい。伝えるためには或いは視聴者が望む形にしなければ伝わらないものなのだ。

そのために業界では様々な編集を加えていて、この時点で“報道も創作物”とさえ言うことができる。


『虚構』の報道が、ネットなどで更に改変されて訳が分からなくなる。

どこらからが『現実』で、どこからが『虚構』なのか既にわからない時代になっている。その事実をしっかり頭の片隅に置いておくべきなのだ。


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ぺろぺろ


余談

海外の方が大の大人が電車でマンガなどを読む日本人は幼稚だといっていることがよくある。では、海外の娯楽文化が立派なもなのかと言い返していいだろう。『E.T.』が大人の文化だとでもいう気ですか。



それでは、次回の更新まで!