さくららい制作日記

こころと創作について

漫画の倫理観

まずは最近描いたイラストとか。

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ああ〜モフモフしたい。

猫みたいで、犬みたいな尻尾。

よくわからない耳。

僕の好みです。

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オムライス! とビールってギャップがありますね。

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乳首! 誰が言ってたか、美しい要素のなかに、悍ましいなにかが混ざっていたは、深みが増すとか。本当かおい。

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1ページ漫画。完全には僕のことじゃないですが、こういうヲタクな先輩がいたら学生時代は楽しかったんだろうなと思います。

なんか、やっぱりヲタクは冷めた目で見られる。たかがフィクションに、何故そんな本気なんだ、と。

僕にとって、サブカルのフィクションは今までの人生そのもの。映画、漫画、小説、アニメ。これらから得たもので構築されている。

まぁ、漫画に描いてある通り、僕も学校が苦手でした。性格歪んでいるADHDなので。

たまにサボって古本屋にでかけて、漫画や小説を読みました。

生きる糧になり、希望にもなりました。

そういう人なんです。

さて、本題をちょっとだけ。

漫画雑誌の倫理コードってどんなのだろう、と最近よく考えます。

乳首はダメなのか、近親相姦はダメなのか、カニバリズムはダメなのか。とにかくあやふやですよね。

『ミノタウルスの皿』は有名ですよね、最後にミノアというウスの女の子が食肉にされる漫画。

なんか、そういうCMありました。

そうそう、ブレンディのCM。

あれは何かというと、とんでもないエロスなのです。人を動物を殺す、という快感。といっていいでしょう。それも食べるという目的のために。

人間にはそういう狂気が備わっているのです。

『ミノタウルスの皿』はウスという人間そっくりの種族が家畜として飼われている星に墜落する話で、ウスは自分たちが食べられてしまうことに、なんの反骨的行動を取りません。

それどころか、喜んで肉になりたがるのです。

すなわち、ウスは人の意思と体を保つ牛というわけです。

藤子不二雄はそれを倫理の危うさとして、星新一的構成で描いている。

最後に宇宙ステーションでステーキを頬張るとこなんかは必見です。


さて、実際にミノアが殺されて食べられれシーンはありません。これは配慮でしょう。これ以上は描いてはいけない、と。

タブーとされることをテーマにしながら、タブーな描写は描かない。

これは古典的な手法です。手塚治虫はたまに軽々と一線を超えてしまうのですが、だから手塚先生の漫画は面白い。

実際にカニバリズムのフェチが描いた絵を見ると、いかにも豚みたいに美味そうだったり、裸の女性や妊婦だったりする。

これは倒錯なのです。

ミノタウルスの皿の主人公は真っ当な人間として反撥して徒労に終わるのですが、多数派の読者は彼に共感します。

仮にミノアを屠殺して、美味そうに食べた描写があったとする。そうなるともう倫理的タブーは表現として達成されてしまい、エロ漫画になるのです。

そうなると掲載は難しかっただろうと思います。

漫画界のタブーは非常にあやふやで、どこまでが表現の自由なのかと議論されることがよくあります。

僕はですね、はっきり言いますよ。 


「全部アリだ」と。


少年誌でセックスすることも、カニバリズムを描くことも、すべて人間の表現として尊いのです。

あらゆる倒錯も、クオリティが高ければ娯楽に変わります。

それこそ漫画大国日本に相応しいと僕は思うのです。

だから、NG表現というものは脳裏にありません。これから漫画を描く人も、性癖を出してしまっていい。

マイノリティでいいじゃない。

マイノリティでいこうよ。



あなたの倒錯を読んでみたいんです。




それでは次回の更新まで。