さくららい制作日記

こころと創作について

メンヘラと言葉の関係

今回は少し長いです。

考えたこと。

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メイドさん、はあはあ。

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あざのあるメイドさん


今回は勝手な思弁なので、適当に読み流してもらえれば幸いです。


言葉。

言葉は感情を豊かにする、というより、ある制御をかける。

僕の言葉は誰かに届くだろうか。本当に精神を苦しめられた方に届くことを願う。

言葉を僕らはどう解釈していくべきだろう。


僕が好きな人間。何度これを語っただろうか。

ようするに僕は精神的に問題がありながら、社会と向き合う姿勢が好きなんだ。

悩むこと、苦むこと、鋭い恐怖と闘いながらも「前向き」に社会を見つめること、そんな人間をどうして憎めよう?。僕はというと、思ったことをその場で言ってしまったり、逆に抱え込んだりもする人間だ。あまり相手の云っていることが理解できてないから「最近調子はどう?」と聞かれたら「トーストにジャム塗ると美味しいですよね、僕はイチゴが好きなんです」みたいな受け答えしているよ。ちぐはぐな会話だね。そんな多くの人が共有しているであろう“常識”からずれた駄目な人間が僕だ。駄目だからこそ、上手くいかない人のことはよくわかる。言いたいことはつまり、感情とどう付き合うかってことだ。どうすれば付き合っていけるだろう。

たしかに気分に逆らわないことは大切だ。哀しいときはとことん泣けばいいし、嬉しいときは笑えばいい。

決してため込むべきではない。

薬を飲む必要があるなら、医者の指示に従うこと。ちゃんと運動することもよき日常のために必要だ。ごはんを食べる。余裕があれば、絵を描いたり歌ってみたり趣味の世界を広げるといい。

それらの内面を制御しているものは脳内ホルモンだ。

僕が家に帰ってくると……。家族のことだ。つまり個人的な話だよ。いつも誰かが怒っていたり愚痴を言っているから、いつも僕は人が完全に人間が理性で制御できないことに恨んでいる。個人的な話だね、でもバイト先の店長の使い古そうとする魂胆とか、大学の教授の見栄とか。みんな愚かにみえるよ。そんな分かち合えない“感情”に怯ている。

ハメドアリが知的障害者を好きでいたように、ロボットのペッパーくんとか、あまり攻撃性のない無垢な生き物、猫とか……が可愛いと思う。その攻撃性のない無垢さに優しさを感じる。

人間の感情そのものは合理的に働いている。

僕らの感情は理屈の繋がらないことに勝手でしかし合理的な納得をさせる。

人間の感情は複雑だ。だから、少しの認知の違いですれ違う。精神の障害者の中には常識や論理が一切通じないことも珍しくない。

例えばこうだ。

なんとなく電車を乗りつないでいたら、会議に遅れたサラリーマンがいる。

上司は言う。

「あなたの責任でしょ? どうして仕事に遅れたの」

この咎めに

「いや、あの……(説明できない)」

と上手く答えられずに、場が悪くなってしまう。

遅れた人が“悪い”と思う人も多くいるだろう。しかし、事実はもっと複雑だ。あるいは怒る方が間違いだとさえ考えることができる。

わかるだろうか……。

精神障害者の中には時間の感覚が大きくズレている場合もある。認知しているものが違うのだ。こうして、怒られて病む場合もある。

これは脚を失った人に「どうしてもっとはやく走れないの?」と言っているのに等しい。

つまり、こういう社会の一般の常識や世俗の常識は単なる“思い込み”に過ぎない。こういう人がいることを知らないのなら、常識とは愚かな檻だ。感情は複雑で、人の数だけ例がある。僕はなぜか多くの大人がそれ理解できていないことに唖然としている。

でも、僕らはそんな世界で生きている。

生きている限り避けられはしない。

前に書いたかもしれないが、書いてないかもしれない。こんな話をしよう。

僕はいつも“平常心”で過ごすことができたら、と考えているよ。

眠気、倦怠感、焦燥感、抱えこんだ感情が行き場を失う。この脳のSOSにより、おかしくなって、自傷する人もいるし、逆に誰かを傷つけてしまうこともある。いつもできることができなくなってしまう。冷静な行動をとれなくなり、はちゃめちゃなことをしてしまう。

つまり、後悔することになる。

でも、だからこそ、他者ではなく君は君を、僕は僕を赦してやらなければならない。と思う。少し宗教的かな。

では、自分を赦すとはなんだろうか、僕は納得できないことに、自分なりに解釈を与えて自分の中で消化することだと考える。例えば、上司や先生に「なんでこんな簡単なことも覚えられないんだ」と叱られたことがある人も多いであろう、それに自分が駄目なやつだと落ち込む必要はないのだ。また次は頑張ればいいと「前向き」になることが大切。または自分には絵がある、音楽がある、別の教科、または知識がある、と「前向き」になる。そうでなくとも君には必ず何かを変えうる不確実な未来がある。


前に向かってさえいれば。


世界解釈なんてのは胡散臭いだろうが、自分なりに点と点を繋げて解釈すればいいんだ。人間は納得できないことを理解するのは難しいものだ。失敗を繰り返して自分なりの生き方を見つける、それを笑う権利は誰にもない。

ただ優しい言葉だけではなく、厳しい言葉や冷たい言葉から、発見することは如実に多い。人間は、肯定と否定から人生観を形成していくのだ。普通、成長する過程で人間はあらゆる物や人や現象に興味を抱くようになる。やがて、偶然の不幸、稀有な経験を積み、詩人となるが、あまりに遠くに来てしまったことを悩みだす。  

詩人。それはひとつの嫌われ者になる決意。

人生。君や僕にしかできないひとつの生き方。自分の異常は退化ではなく、ある進化なのだと受け入れて、それと共に歩んでいく。僕らは容易く死がやってくるからこそ生を愛すものだ。固執と言い換えてもいい。

生を肯定する社会だから逆に「死んじゃおう」と言うと、異常だとされる。

だが、それは普通なことだ。

「殺してやる」

もそうだ。

これが本来の姿だ。

残念ながら……。

「人間は生きたがりじゃないの?」

と思うだろう。実際、生存本能とは古い概念で現在は用いられない。

自分の遺伝子を残すために生き延びている個体がその一環として生きていることを昔はそう呼んだのだ。

生きることに意味などない、のだ。

目の前の闇に向かう過程で人生の意味や目的や夢を勝手にネーミングしている。それが光となることを祈る。

“言語による表現が豊かになる好ましい環境は、聞き上手がいることである。人間関係では言語を媒介に意思を伝達するため、伝達の技術は重要である。言語は一生の幸・不幸を左右する問題なのだ。”


それでは次回の更新まで!