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さくららい制作日記

こころと創作について

さみしい

同日更新です。

思ったことについて。

 

秋の感傷か、この頃は夜中に目が覚めて無性に人恋しくなる。

それが普通なのかもしれない。僕はもう四年近くまともに誰かと過ごす生活をしていないのだ。

まあ、言ってもしかたない。

埋めるべくなにか描こうかと机に座る。シャーペンがない。

やる気をなくして布団へごろん。

じゃあ書くか、これで何度目の作品だろう。このさみしさを作品にするべきか。

ニートが旅に出る物語。

ファンタジーにしようか、異世界一人旅。セリフのほとんどが内情とか、面白いやもしれん。

「ここが新しい村か、さてまずは宿探しか。うむ、あそこは二〇ゴールドで泊まれるらしいし、ボロくはあるが、拠点にするにはいいか。……さて、宿が決まったから、今度は村を散策しよう。といっても、あまり立派な建物もないし、食べ物もジャガイモにトマトと普通でつまらない。レストランか、入ってみよう。……うむ、うまい。田舎のスープはいいものだ。なんの肉だ? ヤギかな。随分と辛い味付けだ、僕はあまり辛いのは得意ではないが、これはこれでうまい。二ゴールドとは安い。窓の向こうで子どもたちが遊んでいる。女の子も男の子もマントを羽織ってボール遊びか、いいな。さて、飯も食べたし宿に戻って風呂にするか」

みたいな。長い。ひたすらに長い。

旅ブログ的な感じになる。

映像映えしないから漫画としては失格かな、少なくとも僕の基準では。

さて、さみしいが仮に結婚していたらどうだろう。

結婚までいかなくとも付き合っていたら。って完全にさみしい野郎の独り言。

僕のあまりに堕落ぶりに落胆するだろう。そもそも恋人がいて何をするんだ? 

僕のライフスタイルは絵を描いて本を読む個人的なものばかりだし、一緒にいてひどくつまらなさそう。

じゃあ友人か、と思えば友人たちと話す内容もサブカルチャーやらメンタルのこととばかりな気がする。

そういう人間だから仕方ない。

さみしい、さみしいといっても、誰かいても何かするわけではない。誰かそばにいれば、それはそれで疲れる。

一人でいっか。

僕はいったい何をしてるんだ。

暖房で暖かくなって空が明るくなるんだろう。新聞の配達、バイクの音、雀の鳴き声がそろそろ聞こえはじめるはず。

テレビでも観るか、昔は風邪をひいた日は一人でよくぼーっNHKの番組を観ていた。

これでいいのか。これでいいのかも。

視聴期限が切れて結局観ないで終わった映画。

古い山積みの絵。食べかけのバナナカステラ。

一人の部屋。

まわりの人の日常では仕事やら学校でめまぐるしく過ぎ去るようだ。

結局、かつて僕が望んだのはこういう日常だった。

 

東京メトロのキャラクター。

鉄道娘とのコラボ、駅乃みちか。キャラクターの絵が性的かどうかの議論。

ジェンダージェンダー

うるさ〜い!。

この服はリアルかリアルじゃないか。

そもそもなぜリアルじゃないといけないのか。

それならいっそ写真にしろよ。

添削後のイラストを個人が描いていて、それはそれで可愛かったが、アカウントは案の定四方八方から槍で刺さていた。

強調された胸とかまんこ。

目が肥えたヲタクは性的には見えないだろうが、そうでないなら性的に見えるはず、と。そうかもね。

目が肥えたヲタクだからわからない。

添削後のイラストでオナニーできる中学生なんていくらでもいるだろう。

じゃあ、肌を隠せばいいのか、と笑いをとろうとするアカウント。

西洋の裸婦やら彫像はいいのか、と比較するアカウント。

どうとでもいえる。

そんな議論をぼーっと眺めていたら、よけいさみしい思いをする。

どうしてこんな議論を眺めているんだ。

ランドセルがジェンダーの洗練だとか、知らねーよ。

そもそも男女の違いってなんだろう?。

なんか医学書には骨板の形だとか、ホルモンで男の子が車や青色を好きになり、女の子がピンク色が好きになるとも書いていたな、そういえば。

ジェンダー論のはじめのころの議論は、女性は二度生まれる、とかだったからそこから進歩をみせない議論だったり。

自分が納得できないものを発言して、それでまわりが議論で燃える。

勝手してればいい……。 

議論といっても、誰かと誰かが何かたどり着こうともがくわけではなく、個人的な怒りや不満をぶつけあって、そしていつのまにか忘れてしまう。同じ主義を貫くのは頭が硬いのではないのか。

そして、ネットではいつの間にか次の話題に変わっている。

ついていけない。

僕は虚しいままネットで怠惰な時間を過ごす。

前に書いたことからの引用。

自由(権利)を守るための義務って前提を置くとだ。義務に対してルールを守ったり、社会にある倫理的規範を守ることが正しいことは明瞭てはあるらしく(ホントかよ)自分の義務がなんであるかは議論の余地があるようで、これはアリストテレスの研究をしてたW・D・ロスの話。たから義務には必然性と普遍的価値観の共有が必然になるんだ。そういうのを古代では宗教が倫理観の補完として役目を果たしたわけだ。現代においても性的ジェンダーやマイノリティーだってこの義務と自由の問題の範疇にあるようだ。

 

啓蒙。

いろんな人がいてもいい。むしろいろんな人がいたほうがよい。ってのはよく言われる多様性を尊重だ。

多様性、人それぞれ違い、それを尊重する。「平等」という観念をもとに権威や先入観にとらわれず、相手を学歴や職歴で決めつけない方がいい。

先入観を持たずに、探ってみる。

人と人が緩やかにつながれる生活のために。

 

死にたくなった。

 

さみしい。

 

緩やかつながることもない僕だが、緩やにつながらない世間さまに疲れた。

理性やら道徳を基準にした人がそうでないものとして非理性や不道徳が生んだ。

性的なものの感覚は多様性のそのものだ。

だからジェンダー批判はその問題自体が問われるべきであった。

こういうものが、エロでありエロじゃない、それこそが問題であった。

いつしか規則で禁止されたのだ。

誰かを守ろうと基準を設けて、誰かを蹴りと落として。だから、もう一度。

探ってみる。前に進むために。

さみしくなって、書いていたら満たされてきた。何かを作ることで孤独は埋まるのだな。

今日も今日とてなか卯でうどんを食べて絵を描こう。