さくららい制作日記

こころと創作について

けものと人間

f:id:sakurarai:20170216060917j:image

アイコン描いたからみて。

 

作品の草案。

「世間」のなかで「わたし」は異常であると思っていた。わたしは美しいものを愛し、人を愛し、そして世間もそうであるはずだった。けれど、それは嘘だった。愛するには方法と訓練が必要だった。

  わたしは世間がただ漫然と赦してもらいたい、誰かに甘えたいと願う集団であることに気づいた。だから、わたしは彼らのそんな愛が偽物ではないかと疑った。欲望にすぎない、そう思った。そんな中でわたしは常々人間の醜さや美しさが表裏一体であることを考えていた。美しいものを求めるときには、醜いものを避けようとする欲求がある。ではどうしたらよいのだろう、誰もが救われる方法はないのだろうか?

  わたしにしかできない、わたしという小さな虫けらにしかできない、そんな生き様があるはずだと考えるようになった。「戦争」や「救済」ではなく、わたしはあなたのために全力で考える。それがわたしの物語。

 

これ、だからこそ、醜いものも愛せる、という非常に深い話。

 

………。

なんかあれなんだよねえ、だんだん「キャラクター」とぼく本人が同じになってきている。まえは完全に「キャラクター」として割り切ってたんだけども、もしかして、これが文学の罠ですか?。

http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7810239

って小説を書きました。

f:id:sakurarai:20170216061334p:image

挿絵です。

 

  書き終えて考えたことは、ぼくの「獣耳」って妖怪とかキメラに近いんじゃないかってこと。

  人間にもなれず、動物にもなれない。

 

でも、「犬娘の性的な幸せ」みたいに、誰も苦しんでいない状況だったら? と考えてみると、「小さな虫けらにしかできない」行動ってなんだ? と思うわけですよ。少女がSMプレイしていて、学校で嘲りを受けている。それは「殺す」とか「しかと」ではなく、説得できるか。

  ぼくはこういうどうしようもないような状況や精神状態を知っているけれど、今のところ我慢するか「しかと」するしかできていない。

  けものフレンズのことも含めて、もっと重い人類そのものが抱える問題がありますよ。発達障害の人がどうやってそれに向き合っていけるか、とかね。「ケモノ」や「獣耳」を動物のキャラクターとして扱い、それを愛するという世界への関心、幼児性をもつことへの羞恥心と安らぎといった精神状態とかね。

  日本のケモナー発達障害の人が多いのと、獣耳娘が好きなヲタクの違いは、じつは同じ精神形成の道にあるのではないか? とぼくは指摘する。虫けらの話のあとで、これを言うのもなんだけど、僧侶がよくいうのは「個人を超えたものの存在」これはその精神形成の成熟さを示す観念だと思います。

  ぼくはまだそれがわからないから、こうして作品を書いているわけだけど、ちょっと自分の方向性がみえてきた気がします。