さくららい制作日記

こころと創作について

戦争

  ものごとの分別がつかない、これは六花だけではない。

 

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  悲惨な経験をしたかたにたいして、それをわかろうともしない態度は、幼いしまず恥ずかしいことです。

 

  大阪国際平和センター ピースおおさかへいきました。展示のながれは、日本はいかに戦争へ突入したのかからはじまります。

  日本の外交史といってもいい。あの状況下では戦争は避けられなかったかもしれません。

  大きな状況の変化は兵器です。大量に殺戮ができてしまう機械をつくれるようになってしまった。

 

  ぼくとしては、大阪の暮らしをよくわかっているわけです。木造の建物がいかに居心地がよいのか、いかに穏やかに過ごせていたのかを、だからでしょうね。だから、いつも通りに床についてて、そのまま丸焼けになってしまった。

  ピースとピースがつながるように、いままで見聞きしたり、書いてきたことが絵になっている。それは、『人間』という題の作品です。

  惨たらしさや焼ける痛みや飢えなど、すっかりなかったことになって、平和な日本ということになってしまっている。

  ミリタリ趣味のあなたならばよくご存知で、P-51 マスタングという飛行機は、硫黄島を基地に大阪へ飛んできていました。

  工廠へ向けられた機関銃で貫かれた、緑の服があり、服には貫かれた穴があいていました。即死だったのでしょう、旅館で働いていたそうです。あなたはコートを着たことはあるでしょうけれど厚みは同じくらいです。

 

 

   救かるわけがないです。殺傷、いや殺戮するために、緻密に設計された計画と兵器なのですから。家には防空壕が掘られてあり、すぐに退避はできました。体験者の記録によれば、防空壕は崩れおち、火炎にむきだしにさらされ、かけだしたたものは、即座にふきとばされたのです。 空襲のようすを描いた絵には、焼夷弾の中にはいっているエタノールが、撒き散らされ木材へ引火し大火災のなか水をもとめて丸焦げになっている作品がありました。一〇円玉を握れば硬貨の丈夫さはわかるでしょう。当時も硬貨は銅製で、空襲後に融けていたんです。銅は融点1,085°Cです。