さくららい制作日記

こころと創作について

妄想ノート

★まえがき


  わたし。という器があるとする。

  器は、まず肉体の制約がある(肉体こそが器?)。翼がなく、羽ばたくことはできない。羽ばたくということがどういうことなのか、経験できない。それはすなわち、精神的な制約なのではないか?。

 

  それはさておき、社会の問題を考えるときに、この精神的な限界がいかに人生を左右するか。
  人間はひとりひとり違っている。味の好み、色の好み、音の好み。お互いに違っていて、八百屋があり、プログラマがいて、それぞれ社会の一分子として生きている。八百屋がプログラムの組み立てかたを知らない場合に、その苦労はわからない。ただし、その場合に、一人の人間は、ひとりひとり違っていて、相手をわかる、という状態が果たしてあるのか。いや、あり得ないだろう。なぜならば、同じ八百屋やプログラマでも、その仕事中に同じ思いでいる、ということは決してない。完全に閉ざされた個人は、いかなる方法でも同じ想いを抱くことはできない。それならば、個人とはなんであろうか?

 

★ 傷を負った少女
  例えば、愛する母を喪った子供。母は二度と戻ってこない、唯一の存在が喪われた場合。どこに母を見つけられるだろうか? 形としては、すでにどこにもない。ならば、個人の想いのなかはどうだろうか? 想いのなかで、故人は経験しない。動かない。変わらない。つまり、故人は固定された人物なのだろうか?

「笑っている母」や「怒っている母」は、現在進行中の固定された人物なのだろうか? 更新されない情報としてしかないのだろか?


  その唯一の母を個人が抱えているならば、虚像なのだろうか?

 

それとも、もともと他者は自分の想いのなかにしかいないのだろうか?


そもそも、「わたし」という想いが虚像だろうか?。
  わたしとあなたは違っていて、分かり合えないから殺してやる、そうならないために法律がある。だとして、国家同士なら?。

 

  個人が自分の想いと向き合うための物語があるとすれば、それはどんな物語だろう。

 

★語られる物語

  ぼくら人類は、まったく同じ性質、つまり自我を保つはずだ。とめどない雑念の流れがある。つまり、食べたい、疲れた、遊びたい、楽したい、これら「煩悩」は消えない。とまあ、ここまでは小さな話で、雑念の流れのなかに、涙や愛もはいっているとされる。仏教では、愛する、ということも手前勝手な煩悩なのだ。その雑念が消えないおかけで、そこから考えや、行動の「出発」ができるのかもしれない。そして、「経験したこと」は雑念を思考へと変えうる。
従って、経験したことがその人「語る物語」になってくるはずだ。人と人が語り、語られ、さてどこにいくのだろうか?。
  それは祈りなのか?。

 

  妄執を抜けてもらうために、常に祈るようになるのだろうか?。
  それとも、お互いに分かち合えないまま、手前勝手なまま想い合っているのだろうか?。
  聖書や経典は、人々と彼らを救いたい人が教育するためにあった。仏教の世界では経典を読んだり、修行したりできない者に、お経を唱えさせてきた。内容はさまざまだが、般若心経では空を説いている。
  五色が消え去り、何にもない、はじまりも、終わりもない、それが人道だ、と。

  最後にたどり着く地点は、無。無からはじまり、無に還る。死はもっと身近にあっていいのかもしれない。
そして無に還るまでに語られた物語は脈々と伝道してゆく…………。しかし、肉体は?。