死を書く自由
それを書いたら怒られる。
雑誌で発表する。
つまり、それは編集者の目を通して、客観的な視点をかいくぐって、市場で流通させること。
コロコロの漫画で、チンギスハンにチンチンを落書きをしたとして、朝青龍がそれを晒し、ネットで炎上した。別にチンチンくらいで怒るなや、と思う。
しかし、もっと残念なのは小学館が謝罪したことだ。次号で、おぼっちゃまくんにフォローしてもらえば一流のエンタメになったかもしれないのに。
書いたら誰かに怒られる。
例えば、天皇がそうだし、自殺について書いてもダメだろう。絶望先生はギリギリなところを綱渡りした。
ぼくは自殺したい人には、自殺させてあげたらいい、と思う。ぼくももうそろそろ無にかえりたい。でも、その方法を書くとだめなのだ。
死ぬ自由も、書く自由もない。いったい何が壁となっているのか? それは、世間の目だ。
世間の目は、そういうことがあってはならない、と壁となる。いまはSMSがあるから、すぐに炎上してしまう。ならば、炎上しても買いたくなるようなことを書けばいいと思う。ある右翼や左翼の思想でもいいし、ジェンダー論でもいい。
問題は、それをエンタメとして受け入れてくれるかなのだ。死も、殺人考察も、差別も、エンタメとして受け入れられるなら、商売になる。それが出版業界を豊かにするはずなのだ。
と、これはぼくがもう死にたいから要求している節もある。一読者としては、死を娯楽として含むような危険なものに手を出したい。幅広く本と芸術が生まれてくれればいい。
社会が衰退するとか、事件が起きるかどうか、なんてのはこの際考える余裕がない。
面白いもの(人間の考えうること)をもっと読みたい、見たい、体験したい。
出版社が謝罪し、自粛しないか、それが心配です。