さくららい制作日記

こころと創作について

言いたいことも言えない世の中じゃあ

まず、最初に僕がこの頃、友人たちと書いているシェアワールド作品を紹介。

詳しくはまた今度に書こうかな。

√劇場の裏……という、なんとも意味不明なブログ名です。同じはてなブログなので、よかったら是非。

僕は『亜人ハンター』という小説を書いています。



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この頃、魔法学園の付近で怪しげな商売をする人がいます。ビンに閉じ込めた妖精や、マドラゴラを売っているのです。これらは、みんな違法となっています。
それで狐の耳の少女たちは夜にパトロールをしているのです。夜風に吹かれて寒いのか、はやく宿舎へ帰りたいとみんなはボヤいています。
これは大切なことなの! 狐の耳の少女はおっかない先生のことを思いだして、こわくなりました。そして頑張らなきゃと自分に言い聞かせました。


……と、児童書風に。

僕は子どもたちをドキドキさせるような、ファンタジー作品を書いてみたい。

世界中を旅する大長編児童書。

それは一言でいうならロマンです。想像をかきたてる出来事の数々……。数奇な運命をたどる人々の物語。

なかなか技量が追いつかないので、まだまだ先の話になりそうですが。


さて、本題。

(なんだが文体がコロコロ変わる)


日本人は好きだと直接言わないが、僕はどんどん言った方がいいと思う。

それは遠回しの表現ができる語句ががあるからだろう。

わかってもらうためには、わかりやすく言う必要があることを忘れてはいけない。 


ほとんどの日本人は、親や親しい人に好きだとか愛しているだとかいわない。 

違和感があるからだ。

感情を押し殺してしまうような文化が平成の日本にはあって、もっというと傷つけたり傷つけられたりするのがこわくてたまらない人がいる。なにも無神経になれ、といいたいわけではない。自分を守れ、ということなのだ。

彼らは、相手が自分を知っている、ということへの恐怖があるのだろう。

僕の個人的な考えだと、自分のことをわかってもらいたい人は多いが、その結果によって引かれたりするのがこわいのだ。

空気を読むとは、「その場の状況に流される」ことだが、それはその方が精神的に楽だと認知しているからだろう。

言葉より、仕草とかで相手をわかろうとする文化だ。

ところで、僕が漫画界に蛭子能収がいる……というだけで、なにか安心感があるのはどうしてだろう。

蛭子さんのことを人としてどうかな、とは思う方は多そうだが、一方で思ったことをそのまま言うような空気の読めなさは多くの人に勇気を与えていると思う。それが面白い。

ただ、あくまで好かれるためには、謙虚でいるべきだろう。

それでもモヤモヤを溜め込むなら、吐き出そう。心にゴミを溜めないためにも。

人に気を配れるタレントとしてベッキーがいるみたいだが、あの人みたいな善人然とした振る舞い方をみていると不安になるのだ、僕は(わかる、という人は僕と近いかもしれない)。

優しくしなきゃいけない、善人としてあるべきだ、などとみんな思っているかもしれないが、そういう風に振る舞いつづけ、言いたい事も言えないもどかしさの中を生きるのはごめんだ。

まわりに合わせなければいけません、こうしなければいけません。そして、みんな同じ姿になろうとする。


それに疲れて自殺しちゃった人もいるだろう。

小学校から中学校と進級・進学していくと、「地球はひとつ」とか「ひとつになろう」というスローガンが掲げられ、そこから外れた学生は排斥されて、場合によってはひどいいじめをうけるわけだ。


具体的に話していくと、価値観(善か悪か)が排斥を生む。


誰がいじめていたの? と聞くと「〜たち、みんな」なんて答える。

主体を集団と認知しいる。

いじめの例で殴られたり蹴られたりするイメージが使われるが、陰口や無視といった関係性へのダメージを与えていくことも多い。

集団の中で生きるには、配慮により心を痛めることもある。

どんどん自分の気持ちを伝えよう。

伝えるために本を読もう。

溜め込んで鬱にならないように。


余談だが、蛭子能収、テレビで人気が出た影響で漫画家としては才能を潰してしまったのかも……と書いている人がいたが、漫画家が漫画よりずっと楽に儲かる仕事ができるなら、そりゃなぁと。漫画家は漫画しか描けないような人がやる仕事だ。



それでは次回の更新まで!。