さくららい制作日記

こころと創作について

認知行動療法への疑問

  認知行動療法(CBT)は心療内科で採用されていて、どうやら思考パターンを分析して、鬱や不安を引き起こさない思考方法を編み出す治療らしい。
僕もこれから、この認知行動療法を受けようと思っている。今のところ、この治療法自体に信頼感があまりなく、不安はある。
今までは、何度となく心療内科へ通うことを考えたが、いろいろな理由からそれは難しかった。

  心療内科の先生に「電線がこわいんです」っていったら、本当に困って苦笑いしていたのを想い出す。
先生は「普通か普通じゃないかで言ったら、普通じゃないよ」とおっしゃっていた。
僕は「空が広がっている方がいい」って考えだから、それを阻害する電線は「汚い」と認知してしまう。なぜ空が広がっている方がいいかだけど、それは自由でありたいからなんだよね、自由。で、わけわかんなくなる。
認知治療でもし僕が「自由なんかいらない、空が広がってなくていい」って言いだしたら、そりゃディストピアだ。
世界が間違っているのか、僕が間違っているのか、存在するのかしないのか、それに囚われている。

漫画のこれから

 いきなりだけど

漫画編集者はプロフェッショナルか?
と聞かれたら、僕はいいえ、と言う。

彼らのほとんどはプロフェッショナルじゃない。


 バクマン。という作品がありますね?
漫画を描くならご存知かと。そうでなくとも映画化したくらい有名だ。あの漫画によって、多くの人がジャンプが漫画界で一番であり、ジャンプで連載をしてアニメ化するのが夢であり幸せだと思い込んでしまった。よい編集とコンビを組み、夢に向かって猛進する。よいですねえ。
しかし、あれはジャンプがジャンプを売るために描かせたいわばプロパガンダ。
実際はよい編集と出逢えるかは運(これはバクマンでも言われていたね)。だし、ジャンプの漫画は子供騙しレベルのが多い(少年誌だからってのは理由にならない)。あんなのを一生描かされると考えると人生闇である。
 今やウェブ漫画が普及しはじめてきている。まだまだKindleなどの電子書籍では売りにくいようだが、ほとんどの大手出版社もウェブ漫画サイトを運営しているほど端末の所持率が高い。商業として成り立つ土台はある。
僕は編集者を介さない自分のペースで発表する環境を探している。

まず、イラストや漫画のウェブサイトで、でかいのはpixivだけど、pixivには応援方法が点数かブクマしかない。これでは完全なる自己満足。他の漫画投稿サイトは劣化pixivだし、いずれ競争に負けたりして消えるだろう。いや、そもそももともとほとんど誰も読んでいない。
comicoとかは特別読者数が多いけど、縦読みにこだわる意味がわからない。横スクロールでもいいじゃん。あと、comicoで公式連載したところでたいがいのバイト以下のお金しか儲からないだろう。総括するとウェブ漫画はまだ生まれたばかりでにっちもさっちもいかない、というか暗闇へ走るバイクみたい進歩は早いがよくまわりがよく見えていない(僕はバイクに乗りませんが)。

 

 今や、ジャンプで連載してアニメ化するのとウェブで有名になるのは同じレベルの頂にある。ほんとうなのだ。
もっというと笑えるネタやえっちな絵を描く人が有名になる。
でも、いつまで続くのだろう?
 

巧い絵描きが増えれば増えるだけ、マンネリ化していきます。ま、それがいいかわるいかはさておき。巧い絵描きが素晴らしい漫画を無料で公開する。そして読まれる。
そうなるとどんどん紙の重い雑誌を買って読む気力がなくなるものです。紙の母体は重いしかさばる。僕はネットで漫画を描いたり、商業の編集さんと話しあったり、放浪中なのですが、だからこそ見えてくる漫画界の雲行きがあります。

 

 僕は一ヶ月かけて丁寧にネームを書き、それを担当編集へ送付したのですが一ヶ月近く経ってもメールひとつなし。
ま、忙しいのと期待されてないからでしょうけど、「感想下さい」とメールを僕は送ったのですよ。したらすぐに返信がきて、電話でお話ししましょう、と。
緊張なんかしません。
僕は編集より絵描きが偉いと思うからです。
電話。
…………。
僕「どうでしたか?」
編「いつも通りですね」
僕「言われた通りにいつもより丁寧につくりました」
編「うーん……」
僕「だめですか? もっと受ける方がいいですか?」
編「受ける方がいいですよ」
とかいうから
僕「受ける漫画を描けばいいんですか?」
編「それは君の決めることだよ」
さらに
編「漫画は芸術ではなく商品です」
どうやら受ける方がいいけど、受ければいい、つまり同人から引き抜けばいいわけではない、といった雰囲気を感じた。編集は雑誌のバランスとか考えながら選ぼうとしているのだろう。
僕は反論する。
漫画を商品とみなしても売れていないのだから、編集さん、あなたたちはそもそも漫画を根本から理解していないのでは、と。
僕「編集者はそうでしょけど、漫画を完全に商品として扱う作家ってほとんどいませんよ?」
編集者の好きなものを描いていい、ってのは大嘘なのだ。
編集「売れるか、売れないかではない。それは二元論だ」とかいいながら、「漫画は芸術ではない商品だ」と言っていた。
電話は前触れなく切れた。
切られた、というのが正しいかもしれない。

忙しいそうだから別にいいだけど前触れなく電話を切るの、一言 “すいません” くらい言えないのかよ、とか思った。
(僕はいいけれど)こういう礼儀とかがなってない世界に何も知らない漫画家が巻き込まれているの、異常でしょ。
それと、この編集さんはまだ良心的だろうけど、もっともっと漫画愛がない商品としてしか扱わない編集はいる。もはや僕個人ではなくて、業界全体に漫画編集者に対する不満があるのに、なんら手立てが打たれていないの異常でしょ。
僕とて今の出版不況のなかで商業で活動できると思っていない。けれど、商業以外で稼ぐ手段はほとんどない。ストーリー漫画で食えると思わないこと。稼げても大抵のサラリーマン以下だ。かなしい。

これは今の結論で、数年後にはまた違った時代かもしれない。けれど今はストーリー漫画では食えない、と言わざるを得ない。
でも、食えなくてもいいじゃないか!
別の仕事をしながら描こう!
なんなら親のスネをかじりながら描こう!
生活保護で暮らしながら描こう!
それはそれでひとつの覚悟だぞ。


描く楽しみを忘れるな。

 

聴いている曲

  音楽を聴いていると絵のイメージとか浮かぶものだ。僕はそう。アニメだったらどこで使うか、とか、この曲だったらどんな作品だろうか、とか。ところで、人がどんな曲を聴いているか気にならないかな?
僕は気になる。だから、僕が好きな曲を一部紹介しようと思う。

 

  まず、カラフィナの曲では「君が光へ変えて行く」が一番いい。
ま、カラオケで歌える曲じゃないんですけど。第二章が一番退屈でつまんなかったのに、全部読んだあとだと第二章が尊すぎる。

 ゴティックメードのベリンの数え歌。
これはいいっすよ。なんでもない歌なんだけど、だからいい。
なんでもない歌だけど、全体でみたら貴重な時間だった……みたいなのに弱いんです。
ベリンの数え歌、茜の大地、空の皇子 花の詩女はセットで聴きたいね。歌詞が文学的で、まさに詩! みたいな。

同じようなわけでインディーズバンドのResetの曲がすき。Episode of Clovers とかね。
霜月はるかの瑠璃の鳥は僕の霜月はるかのイメージを変えた! くらい、いい曲。ゲームはミステリでそれにふさわしい歌詞。霜月はるかさんはこういう暗い雰囲気が漂う曲が向いていると僕は思う。

押井守の珍映画あったんだよ、宮本武蔵のドキュメンタリーみたいなの。それのテーマを泉谷しげるが生まれ落ちた者へって曲を捧げてるわけよ。これいいっすよ。押井さん好きそうだな、って。孤高といい意味でも宮本武蔵と通じている曲。


きもかっこいい面影ラッキーホールの温度、人肌が欲しいは名曲、抜群のリズム感にもんもんとした魂の叫びが踊りだす。たぶん、でてくるワードは理解できない人がほとんどだろう。調べようね。
二九の人と一六の娘(こ)のくだりは笑う。
あと乱歩奇譚からの浅い歴史だけどamazarashiとかも好き(語ると長くなりそう)。
歌が物語になっていたりするのいいよね!
あと、余談だけどインディーズバンドの曲とかなかなか聴く機会がない。
検索かけてもあまりでてこないし、埋もれている名曲は多いと思う。そこらへん改善したい。僕もそうだけど、好きなアーティストに投資できるシステムがなさすぎる。もっとポイントとかでもいいから応援できるシステムがないと、才能あるのにやめてしまう人がでつづける。話が逸れました。それでは。

離人について

 


堀江貴文近畿大学の卒業式でスピーチした動画をみた。
まあ、特に凄いことは言ってないんだけど、自分の考えたことをブログとかで共有しろ、って意見はごもっとだろう。
だから、僕は今更ながら、こうして情報を提供する。

多重人格ってご存じだろうか?
サブカルの界隈の人なら、当然馴染みのある言葉だろう。
多重人格を要素として含んだ作品はごまんとある。ま、その中でも、これは特筆する、ってならば、原作の『空の境界』をあげておこう。
さて、多重人格とはなんぞや? な、サブカル界隈外の方はウィキペディアで検索しよう。

で、
 解離性障害とは自分がわからなくなる精神疾患のひとつだ。そのなかでも僕は離人症の症状のような感覚を何度か味わっている。

そう、あれは中学のときだ。
いじめ、家庭的な問題で疲弊していた僕は学校を休んで、夏の暑さに茹りながら田んぼを眺めていた。その頃の僕は消えてなくなりたい、といった願望がたしかにあった。
消えてなくなりたい、生きるとはなんだ?
思春期によくある思う(思春期の精神こそ着目点だ)。
夏の濃い日差しのなかでぼんやりと考えていたら、自分がいなくなるような感覚に包まれた。

僕は誰だ?

僕は怖さと、その怖さが自分のものではないような、そんな、つかめないふしぎなこころを体験した。
そのときが人生で最高濃度の離人だった。
自分がもう一つあるような、ゲームでキャラクターを眺めているような感覚が長くつきまとう。だから、鏡が不気味だった。
そこに誰かがいる。
鏡の中に “僕” ではない “僕” がいる。その理解を超えた現象が不気味だった。

調べてみると、あまり情報がでてこない。
だから、こうして経験を書いているのだ。
つまり、これは医師や同じような感覚を知っている人に読んでもらいたい。

 最近になって、ようやく柴山雅俊という医師を知った。この人は本当にわかっている方だ。
ま、まだ著書は読んでないけど(笑)
あと、まんがを描いていたようで、僕は親近感を持った。
柴山さんの著書

解離性障害—「うしろに誰かいる」の精神病理』 ちくま新書
解離性障害のことがよくわかる本-影の気配におびえる病』講談社

まず、このタイトルは凄い!
的を得ている。うしろに誰かいる、影の気配、この言葉は僕の経験からいって非常に正しい。そう、その感覚! って思わず唸った。

まだ読んでいないのでどうとも言えないが、こういった売れはしないが、絶対に絶対に求められる本を出版するのは大切だと思う(おら、きいてんのか出版関係者!)

柴山さんから話題を変えてみる。
鏡をみているとだんだん自分じゃないような感覚を覚える。顔の一点に集中して鏡をじ〜っと見てみよう。
とつぜん、変な人が映り、ゾッとする。
これはトロクスラー効果と呼ばれ、なにかに集中して着目していると、そのほかが見えなくなったりする現象だ。
目の錯覚とは脳の働きによって生じる。
無理やり例を挙げると、夢のなかで現実と寸分狂いがなければどうやって夢だと判断できるだろうか。押井守のイノセントでキムの館がでてきたね?
人間が現実と夢かを判断する材料は連続性があるか、つじつまが合うかどうかくらいで、つじつまが合っていたら現実だと思ってしまう。
雨→降る
とか
炎→熱い
みたいな連想は論理的な結びつきなわけだ。
雨→火事
とかなら、わかりやすいかな?
いや、雨なのに火事とはおかしなことだって。
人は概念の結びつきで発想をする。演繹でつじつまを合わせて記憶する。……だろう。
鏡をみていたら、変な人が映った、化けものが映った、というのは演繹である。
自分が知っている概念へ結びつけたわけだ。

気配とは、つまりそんな脳活動ではなかろうか。
前にミステリを描こうとサイコパスや犯罪心理について調べていたが、なんとなく関係がありそうだと思う。

僕は大阪の人なので、でなんやねん? ヲチはどこ? と言われそうだ、ヲチを用意できなかったことを謝ります。
ヲチついて冷静に書いたつもりなんですけどね。

以上

クリスマスの夢

 クリスマスカードの絵を眺めてる。

サンタクロースとトナカイの絵が書かれている。何も考えは思い浮かばない。だから、ぼくはお菓子を食べながら何時間も考えた。いつのまにか眠りについていた。ファンタジーな奴には小説は書けない。誰だ? と思ったら、そこにトナカイがいた。

 夢のなかなのにぼくは現実にいた。

現実にいて考えている。だから、トナカイの言葉はぼくの妄想じゃない。ぼくはそのことを書くことにした。ファンタジーじゃない人は小説なんか書けない、と。ファンタジーとはつまりフィクションのこと。

それをママに言ったら、「トナカイなんかいないわよ、きっと夢をみてたのね」と和やかな声でわらった。ぼくはノートをみた、たしかにファンタジーじゃない人うんたら、って書いていない。これは夢なのだろうか? クリスマスの魔法にかけらたのだろうか。ぼくはノートに書くことにした、ファンタジーじゃない人は小説なんか書けない。クリスマスの夜にはファンタジーになる。人は、誰しも魔法にかかる。ぼくは夢をみていたのだろうか? クリスマスカードを見ると、サンタクロースとトナカイがいて、たのしそうだった。ぼくは夢をみていたのだろうか? それとも現実だったのだろうか? はたして、これがファンタジーといえるのだろうか。これはファンタジーなんかじゃないかもしれない。だから、ぼくはタイトルをクリスマスの夢と題した。

著者権を考える

絵師のGoogle画像を参考にした、ってのは文字書きのWikipediaを参考にした、みたいな話であって、咎められるような問題ではない。

ってなんでこんな話をしたのかというとね、僕の絵が画像を参考にしたろ? って指摘があったからなんだ。

僕は画像検索やWikipediaを活用しまくっていて、胃が痛い話だが、読んでほしい。描く人も取材なり資料なりで調べ抜きたいけど、お金も時間もないのだ。

 

ここから離れが別方向へ進む。

僕はこれから(も)ネットで活動するつもりで、もっともっと本格化させようと思う。

そこでいろいろ調べたことから思考して、冒頭で述べたような権利の話をしようと思う。

 著作権はいつでも議論がなされているけど、いまだこれだ! って論説はみたことないし、例えば使える一コマが著作権的にセーフかアウトってのは難しい。同人漫画なんか転載されまくっていて、著者は不利益なわけだが、無料で読める読者は著作権的に違法かどうかはあまり効力が及ばない。漫画や小説が転載されることと、画像を参考にして絵を描いたりすることは、まったく別の話だ。

著作権は権利の話であるからね。単純な話では、それは直接的に著者が不利益を被るかって話だ。だから、使える一コマは著作権侵害とはいえない。もうちょい書くと、一コマが商業として成り立っているのか? を考えればいい。

ただし誰の一コマかは明示する必要あるだろう(そうしなければ商業だけの話になる)。

そもそも商業的な著作権とオリジナルの権利はまったく別の話。

ドラえもんの最終回事件やポケモンの事件と今で決定的に違うのはpixivの存在。みんなが望んだ世界のためには法は変えらる必要がある。まあ、また変動するだろうね。

これから商業がどんどん縮小化し個人活動が拡大化すれば二次創作物に対していやでも事実上の合法化するんだろうよ。

 

著作権の規定ですべてを管理できると思い上がった人がいそうだ。著作権自体に無理があるのは明らかだと僕は考えている。著作権の記述で規定される事例より遥かに例外が多いからだ。だから、もう頭がおかしくなるように例外を潰していくのが実は正攻法だと思うよ。

 

商業的ではないオリジナルな作品が転載されたときになんの問題があるかは実はあまりない。サイトAの画像がサイトBに転載されたところであまり大きな問題はない(誤読注意)。つまりは画像転載は問題ないとロジカルに導きだすことができるが、納得できないものだ。

しかし、考えてみれば当然のことだ。教室Aに飾ってあった絵を教室Bに飾ってもそこに創造権利への冒涜はない。なぜ、これほど自分の絵が他処へ飾られることに拒否反応があるのか。それは恥ずかしいからと自分の意図を変えられることへの情緒的問題があるだろう。だから、あなたは間違いだとはいけないけど、なんでそんなことするの! とはいえるわけだ。絵にはサインを入れるのがベスト。

 

 

なぜそれをやってはいけないか?

してはいけない妄想していませんか?

 僕はよくしますよ、窓から手をだしてみる、親子の親を殺してみる、したいわけじゃないけど、そんな、ありふれた異常な妄想を。

小ちゃな幼少期、精神異常という考えを理解できなかった。あの子はおかしくて、この子は普通で。へんなおじさんがいて、へんなおばさんもいて、命は素晴らしいのに自殺して。たぶん、みんなも精神異常を理解できていなかったなあ。だから、あいつは嫌いだって避けたり、逃げたり。

先生方は訓示じみて仲良くしましょう、ほらこの車椅子の子も一生懸命に生きている、って言っていた。あれによって、少なくとも車椅子の子はいじめられることはないな、と思った。

けれど、泣き虫ケムシでやーいやーいで、あいかわらず泣き虫はいじめられるし、そういう微妙なところを先生方は何も示さなかった。しかも、示したところで理解されないことを知っていたはず。大人はみんな知っていた。泣くことは悪くない、残酷なのは悪くない、そんなの小学生そこいらにわかるはずもなく、大人も知ってはいるが、深くはわかってなかったろうと今さらに立場的に察した。泣くのは悪くない、は大人ならすぐに悟り知るけれど、残酷なのはわるくない、ってなんだ? と思う大人もいるはずで、これは例えば虫を殺したりする人や、またぜんぜんタイプが違いそうだが、死んだ親族の顔をじろじろみたりすることをイメージした。

大人にそれをしてはいけない、と教えてられて、経験的に怒られる行動を避けるようになるのが人間の成長だ。誰かが言った、書いていた、結局そういった集積だろうと踏んではいる。たぶん、やってはいけない妄想とか、幼少期の憧憬を引きずっているんだろう。

僕はまだ、根本的になぜやってはいけないのかにたどり着けていない。