さくららい制作日記

こころと創作について

ぼくの文学とは

  ぼくの文学。
  ぼくは人に誇れるほど本を読んだわけじゃないし、誇れるほど書いたわけではない。そりゃ日記は中学生時代から小まめにとっていはするがそれはあまり負荷のかからない行為だ。ただし、もちろん、書くことは大好き。
  ぼくは引かれそうだが、ASMRとかボイスドラマが好きで以前制作したことすらあった。
そういう「音の響き」つまり語感がぼくの文学を形作っている。そしてはっきり断言するが、音の響きだけで物語がおろそかでも可である。ということはいたるところで書き散らしている。まあ、とはいっても、ぼくにそんなたいそうな国語力があるわけではなく、得意ではあったが、やはり誇れるほどではない。以前にもブログに書いたが作文を褒められたことはないしね。

 

  ぼくは自分が倒錯的だと思わないのだけどまわりをみればそうなんだろうなと思わざるを得ない。服装とか、音とか、色や形に。異常な関心がある。いってみれば、それだけで、なにか問題を提示するような高尚な文学性は帯びてない。だからか、ぼくは妙に文体に凝ったりはあまりしなくて、語彙力などじつは気にもとめていない。

 

  文芸は何歳からでもはじめることができて、かつどこまでも登っていける技能であるから、ぼくはとくに精神苦痛者の癒しとして、身につけることはじつは肯定的だよ。ピアニストがピアノを弾いているときに、精神がある種の超絶に満たされて、苦しいとは思う余裕もないように。それはもうねえ、文芸に熱意を持って打ち込んでいるんじゃなくてね、こういう表現があるんじゃないか? と模索する、パズル的な快感でやってる。理性と感性があるならば、ぼくは非常に感性的な人間だけど、ロマンチストだけど、ゆえにその夢見がちな部分を恥ずかしがって、努力で理性的に振舞っているのだ。ぼくは感性の人間だよ。

  ぼくはねえ、許容できる範囲が広くて、男性向け作品から女性向け作品までをあまり気にしない節があって、事実ショタコンなのだ。
やはり倒錯的で感性の人間といえる。
  ぼくの友人なんかは優等生タイプでなにかしろの具体性と計画性を常に備えている。繰り返すようだが、ぼくは理性を努力で捻出しており、プロット作業なんかは苦痛だ。神話になぞらせる、とかここの伏線がのちのち生きてくる、みたいなことは、できるんだけども、それがぼくの文学だとは思えないし、本質部分で大きくそこに拘る人とは食い違っている。人間の食べる音、泣く声、笑う声、喋り方にぼくの文学の源流がある。偉そうにいえば、それがぼくの文学が人類の永遠性に触れている部分で、つまりそれがある種の才能なのだろう。ぼくは今、そういう理性部分を骨組みに感性を解き放つとんでもない倒錯的な作品を構想している。
  ちょうどねえ、こういう小説をスーパーのフードコートで書いた。

http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7793784

これは綺麗に汗ひとつみせない作品なので気に入ってはいる。

 

  ぼくの文学は音楽なのだ。歌なのだ。
  ぼくは優等生タイプじゃあないんだよ。あたまは悪くないが、そういう努力は苦痛だ。
じゃあ声や音の響きは下等なのかと言われると、たぶんそうじゃない。なぜならばほんとに下等ならもっと排他的になるからで、そこに流れるような対話の精神はない。
前にぼくは読者に配慮しないと書いたがそれは歌の文学の潔白さを保つためだ。
なのにどうしたことか、ぼくは破滅へと向かってしまう。生活でも、文芸でも、とにかく破滅へと向かってしまう。だから、いっそ破滅させてしまおうと思うわけだ。
ぼくの創作の旅はどのように終わるだろう。
どこへたどり着くだろう、そこに興味はないでもない。