若い犬たちに告ぐ
いつから、オレは成犬になるのだろうか。
結局、オレはオトナになれなかった。そういうことだ、きっと。
社会の犬といわれたって、ぐうの音もでなかった。
鉄の重みが線路を踏みしめ、電車はやってきた。
盲導獣人学校を卒業したあと、まったくどうしたことか、盲導獣人にはならず、よくあるなんでもない会社に就職した。
獣人社会は、人間社会とうまくやっている。たぶん、うまく混ざりすぎて、くるしいくらいに。 今や人間と獣人は同じ街で見かける。それもそのはず、人間と獣人が結婚することだってあるのだから。ところで会社で働くのがうれしいやつなんかいるのだろうか?オレはそんなことを漠然とあたりの獣人に問い詰めたくなった。黒いスーツとズボン、まわりはみんなオスだ。メスとオスは車両が違うから、このオス臭い圧力を我慢しなくちゃならない。もうオレはオトナだから、我慢しなくちゃ。
会社はというと、平凡な製薬会社で、ブラックでないのがまだマシ、くらいの感想しか持てないでいた。
自分の席に座り襟を正す。
犬獣人の健康生活をサポート。
パソコンに向って健康だの、運動だの打ち込んでいると、無性に吠えたくなるが、我慢。
オトナだからな。
「おーい、歌之介くん」
声の主は、同じ事務の友人だった。
「最近ボーッとしていること多いね」
はあ、確かに。
オレは軽く返事をした。
愛想のない、薄いコミュニケーション。
こんなことを考えていた。学生時代の話だが、同じクラスの可憐な毛並みの犬に恋をしていた。
その娘とは結局ろくに会話すらできなかった。
いつもよく笑っていて、彼女は陸上部だった。駆ける姿はオスさえ目を丸くしてしまうような力強さがあって、釘いってみていたっけ。
彼女は今頃盲導獣人になって、社会で活躍しているのだろうな、そんなことを考えていると、さっきのように、友人によくボーッとしているな、といわれる。
なんでもない毎日。
そうか、オレは成犬(おとな)なんだ。
だとすれば、あとは老いていくのみなのだろうか?
オレはなんでこんな場所にいるのだろうと、頭が真っ白になった。
きっかけはその日の電車を乗り過ごしたことだった。だが、きっかけなんかどうだっていい、これから新しい生き方をするんだと、自分に言い聞かせて、胸のなかの静か興奮に耳をすませた。
潮風がオレの毛を撫でた。
カモメ系の人が、白く巨大な病院のあたりを舞っている。
親切なランニング一枚の犬獣人のおじさんが、
「おい、いいのか? ここは猫系ばかりだぜ」
という。
「ええ、猫系ばかりのほうがかえって気が楽ですから」
おじさんは変わった若造がいたものだ、と笑い、オレと釣竿を一緒に垂らした。
「おじさんさあ、オレはむかし恋をしてたのだけれど、彼の娘もう彼氏がいるのかなあ」
「そりゃいるだろうよ、年頃の娘にゃあいないほうがよくねえよ」
ため息ひとつぶんの後悔、けれどランニング一枚のおじさんはオレの肩に手をまわして、
「だがよ、いい娘なんぞいくらでもおる」
「オレ。じつは社会に疲れたのかもしれない。だって毎日同じことの繰り返しだもの」
ガッハッハと、豪快な声が耳の横ではじけた。
「まあ、ゆっくりこの島で過ごせばええ。いまどき変わりゆくものばかりだが、この島からみえる海のように、変わらないものもある」
釣竿がずしりと重くひいて、腕がとれてしまいそうになるが、必死に巻き上げていくと、一匹のつやつやとした魚が釣れた。
「そんじゃ、今夜はこいつで呑もうな」
おじさんはすくっと立ち上がり、背筋をのばした。
あたりは緩やかに赤く染まりだしていた。
波打ち、はじける海の音楽が、海岸沿いに渡ってつづいていた。
【おわり】