さくららい制作日記

こころと創作について

多様性という言葉を口にする人がいるが

  真っ暗な部屋で眠ろうとしていたら、余計なことばかり考えてしまって安眠できない。
 

  多様性だ、人それぞれだってみんな口を揃えだしたが、ぼくは納得できないんだよね。というのは、それはリアルじゃない。他人と仕事したりする。仲良くしようとする。でもそれは、友人関係じゃなく、上面で相手の言葉に従うことでしか成立しない。だから、多様性っての自由に自分をだせることじゃない。ほんとうに自分のやりたいことをやって、好きな人と話して、そういうことができる仕事ってないでしょ。ほとんど。そんな世界で生きているのに、多様性だと言われたって、それは偽りでしょうよ。その多様性って言葉には、ほんとうのいろいろな人材が自由に生きる意味ではなくて、今や相手を拘束する言葉と化していることにもうみんな気がついてるんじゃないかな。同じように、「自由」もその偽りがある。だって、人間は嫉妬深くて、欲が強くて、相手を支配下に置きたがる。他にも名誉とか実績を気にする。それがコミュニティを形成している。なのに「多様性」「自由」ばかり一人歩きするしているのはおかしなことでしょう。そんな中で、「マジョリティも多様性、マイノリティも多様性」って認めたって、それは空論じゃないか。たしかにそこから生まれてくるものもある。そういう話をされた。ぼくはなんだか腹が立った。無責任すぎると。マジョリティがマジョリティを生み出すことを多様性としても、結局は個人単位ではみんな孤立していて、そこに着目しなきゃいけないんじゃないのか。

  何度も繰り返すけど、多様性って言って人を追い詰めないでほしい。それは自分だけでは実現できないんだよ。

  ほんとうに語らなければいけないのは、個人たちがどうすれば自分を大切にできるか。その点じゃないの。ぼくはむしろそこが大切だと思う。自己の確立、もっといえば自己の精神とどう向き合えるか。でも、短絡的な人間は精神について向き合わない。それは社会で生きる上で自分はいいけど、他の人を傷つけていくことに他ならない。そういう人がいるから、ぼくは人間が嫌いだし、社会に適応できなかった。社会を憎んだ。これはぼくだけじゃないはずだと思う。どんどん個人を尊重しよう、個人単位の幸せを掴もう、といろいろな趣味があるのに、人間たちはいっこうに変わらない。自分というものを持たなきゃいけないことと、それが不可能な世界とのもどかしさにじっと我慢している。多様性だ、大衆文化だの流行だの、売り上げたの実績だのに執着する社会に。

  結局ね、人間はやっぱり多様性なんか認めないんだよ。そういうことだろう。自分が愛するものを愛していく。いや、自分を愛する。はじめからそうであるように。

  愛するとはなんだろう、つまり、だからこそフロムが書いてる、愛することは与えることである。ということなんだろう。理想を言えば、人間同士が愛し合う社会が実現するかどうか。どう暴れん坊な自分と向き合えるか。それはわかんないけども。ああでも、それは話を聞くとかその次元でも実現するそうな。フロムによれば。たしかに誰かの話を聞く(受け入れる=与える)のは愛のひとつかもしれない。人それぞれだとバラバラにする多様性という言葉は今のところ理想論だけど、ほんとうは「一緒になろうとする精神」の方が愛の法則が働きより多様な世界を生み出す。

  一緒になろうとして、人間を知ること、それが神について探究することならば、現代日本では神は信仰されなくなってきたけれど、それと似たようなことをやっているわけだね。

 

クオリア

  人間らしさが感情の豊かさといわれても、ぼくの心が豊かなのか計測しようもない。そもそも計測なんか不可能だろうと思う。

  たしかに計測できるもの、つまり論理的なものは、人間がAIに敵うことはない。計測できるものはその範囲からでない。これもわかる。ただし、では人間にはそれが必要なく、豊かさが人間には必要だ。ってのはわかるようで、ぜんぜんわからない。

 

  ぼくは自分の心は豊かですよ、とはとても言えない。そもそもこの問い自体が人間に値段をつける、価値の査定にしか考えられない。そもそも人間は価値判断でしか評価できない生き物じゃないのかなあ。で、その生物の性質上でわかりやすい計測できる価値判断が登場したが、それを全否定するAIがでてきて、人間って心の豊かさが大事です、といわれても、どうすりゃええねん、って感じなんだけども。まあ、それが「オレがいいと言ったらそれはいいもんなんだ」みたいな、先進的だけどある意味原始的な初歩的な判断になるんでしょうね。

 

これ、ヲタクマインドじゃないかな。

 

  人類の成長はヲタクになること、ってことなのかなあ。マスにしても(アニメはマス=大衆 かはさておき)厳密には趣向はわかれるでしょ(艦これでも、けもフレでも好きなキャラやその声、仕草は違う)。

  おじゃる丸のかずま的ななんでもない、ただの石ころあつめるみたいな趣味は、あるいみ未来的なのかなあ。

  赤は赤でも、この人がつくる赤が好き。みたいな気持ちはあると思う。まあ、これが本題ですよ。色の選択は鍛えられるけども(初心者が選びやすい下品な色は知識と経験で上品になる)、色の好みそのものは別だと思う。

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ネーミング扇子

  けものフレンズが流行ってる。
ぼくは一話しか観てない。というか観れない。こんなにブームが来てるなら、観ようかなあ? とか少しは思う。
まあ、他に読みたい観たい作品があるのでそちらを優先します。

 

  作品の登場人物の名前は、筆が進み具合に影響を与えてしまう。名前がテキトーだと、なんだかあとから気に食わなくなって歯痒さを感じてしまう。だからいい名前をつけたい。たとえば「シャーロック・ホームズ」はいい名前だろう。こんなふうにネーミングは実は重要だ。人によってはここで粘り有名作品からオマージュしてみたり、アナグラムにしてみたり、キャラの性格やもっいえば、そのキャラの宿命から皮肉を込めつつネーミングしたり(これすきだ)。でもぼくはずさんなネーミングばかりなのだ。銀の髪だから「シルバーちゃん」とか、桃から生まれた桃太郎的でそのまんまで捻りがなかったり。まあ、まんまだからこそ、イメージを連想(繋げる)することができるってのもある。だから鈴木さんとか、小林さんとかなんの関係もない名前をつけることは、ぼくはちょっと苦手だ。まあ読むぶん見るぶんはいいけども、なんとなくイメージを連想できないことに人工性や作品の構築美を感じられない。まあ、そんなの必要ないと言ってしまえばそこまでだけど。

けものと人間

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アイコン描いたからみて。

 

作品の草案。

「世間」のなかで「わたし」は異常であると思っていた。わたしは美しいものを愛し、人を愛し、そして世間もそうであるはずだった。けれど、それは嘘だった。愛するには方法と訓練が必要だった。

  わたしは世間がただ漫然と赦してもらいたい、誰かに甘えたいと願う集団であることに気づいた。だから、わたしは彼らのそんな愛が偽物ではないかと疑った。欲望にすぎない、そう思った。そんな中でわたしは常々人間の醜さや美しさが表裏一体であることを考えていた。美しいものを求めるときには、醜いものを避けようとする欲求がある。ではどうしたらよいのだろう、誰もが救われる方法はないのだろうか?

  わたしにしかできない、わたしという小さな虫けらにしかできない、そんな生き様があるはずだと考えるようになった。「戦争」や「救済」ではなく、わたしはあなたのために全力で考える。それがわたしの物語。

 

これ、だからこそ、醜いものも愛せる、という非常に深い話。

 

………。

なんかあれなんだよねえ、だんだん「キャラクター」とぼく本人が同じになってきている。まえは完全に「キャラクター」として割り切ってたんだけども、もしかして、これが文学の罠ですか?。

http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7810239

って小説を書きました。

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挿絵です。

 

  書き終えて考えたことは、ぼくの「獣耳」って妖怪とかキメラに近いんじゃないかってこと。

  人間にもなれず、動物にもなれない。

 

でも、「犬娘の性的な幸せ」みたいに、誰も苦しんでいない状況だったら? と考えてみると、「小さな虫けらにしかできない」行動ってなんだ? と思うわけですよ。少女がSMプレイしていて、学校で嘲りを受けている。それは「殺す」とか「しかと」ではなく、説得できるか。

  ぼくはこういうどうしようもないような状況や精神状態を知っているけれど、今のところ我慢するか「しかと」するしかできていない。

  けものフレンズのことも含めて、もっと重い人類そのものが抱える問題がありますよ。発達障害の人がどうやってそれに向き合っていけるか、とかね。「ケモノ」や「獣耳」を動物のキャラクターとして扱い、それを愛するという世界への関心、幼児性をもつことへの羞恥心と安らぎといった精神状態とかね。

  日本のケモナー発達障害の人が多いのと、獣耳娘が好きなヲタクの違いは、じつは同じ精神形成の道にあるのではないか? とぼくは指摘する。虫けらの話のあとで、これを言うのもなんだけど、僧侶がよくいうのは「個人を超えたものの存在」これはその精神形成の成熟さを示す観念だと思います。

  ぼくはまだそれがわからないから、こうして作品を書いているわけだけど、ちょっと自分の方向性がみえてきた気がします。

生きるのがつらい

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ハムスター。文章と関係ないけれども。

  生きるのがつらい。おわり。

って一行で終わらせてしまってもいい。それくらい混乱している。書くのがほんとにつらい。でも、書きたい欲望がわき出てきたから書く。
 

  この頃は、生活ペースが安定していた。
昼はカフェでハンバーグを食べて、夜はちゃんと寝る。そんな生活だった。ちょっとその生活ペースが崩れた。夜にスマホをさわっていて眠れなかったり、食事もサイゼに週四くらい通っている。ぼくは家で食べるものがない。親は昔から料理をつくらない人だ。だから、自分で外食するしかない。自炊するには台所が汚すぎる、家電が前時代すぎる。

  昼に決めた場所で食事を採る。ということが日常を固定する文鎮だった。だからその日常にもどさないとね。生活ペースが狂っているから、ぼくも狂っている。あせりの症状がでている。何かしなくてはいけなんじゃないのか? 自分の能力はこの程度か? って。わかっている。それが症状だと自覚しているから、あせる。処理できない感情にあせる。そして疲れる。
こんなことは何度もあった。だから嫌だった。自分を信じられないこと。制御できないこと。自分が不安定すぎて社会に適合できないこと。それが嫌なのだよ………。

ぼくは普通に生きることができないから、異常者になったわけだ。異常者になりたいから異常者をやってんでなくて。どうしても、アニメ観て仕事して、それで一生を終える、ってのができないから、異常者になってる。

「生まれてこなければよかった」

「生まれてきてしまった」

という行き場のないあせりがある。だから、どうしたって文章や作品に「死ぬ」「殺される」「終わる」とかがでてくるのは仕方がないわけだよ。

 

 

障害者福祉と家族についての願い

  これは、説教ではなく願いです。

  NHK番組「この町で生きる 障害者福祉をめぐる模索」観ていた。多動の症状がでていて部屋をぐるぐるまわっていた。どこも似た症状と似た問題を抱えている。家族が支えていること。          

  ドライバーを持ち出して土を掘りたい、と言って外にでたがり、それを不安からか止める家族とそれに不快を仕草をする患者。患者は物事が上手くいないこと、自分の病気にとらわれていることに悩む。番組では、誰かにしてもらうのではなく、誰かに言われて行動するのではなく、主体的な行動をさせることで患者は自信を持つようになる、と教える。

  主体性を持つこと。それは、家族に知識と体力があるかにかかっている。たとえば、暴れる患者や理解できないことをする患者を患者が守れるか。それができないのならば病院や施設に任せるべきではないのか。患者にとっての幸せがなんなのか。それが番組での主体性を持つということではないのか。つまり患者が自分で自分の幸せをみつけられるかどうか。それをサポートできるかどうかではないか? きっと、家族も患者も生きた心地がしていない。毎日が苦しくて、つらい。生きていることが苦行に感じている。それは不幸だ。もう一度、生きていることに喜べるようにならなければいけない。諦めないでほしい。わたしは病気なのだと、これは心の闇なのだと片付けてしまってはいけない。思えば思うほど、無気力になり、怒りに支配されてしまう。まず、わたしにできることはなんだろう。そう考えてみる。あれができない、これができない、とマイナスに消去法で考えるのではなく、あれはできる、頑張ればできるかもしれない、と考える。あるいは、それを応援してくれる仲間がいるとよい。

  人には尊厳というものがある。その尊厳を犯してはいけない。あたりまえのことだ。けれど、それは学ばなければいけない。学んでも、忘れてしまいがちになる。ゆっくり、相手を思わなければならない。人間はとてもよく学ぶ生き物だ。よく人間はおろかだという。たしかに人間は多くの間違いをした。でも、そのたびに多くを学んで、前へと進もうとしてきた。それが歴史というものである。

 

 

絵を描く人間

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  もし絵が描けたら、上手かったら、って願望を持っている方もけっこういらしゃるので、ぼくは「下手でもいいんだよ、好きなものを描けばいいんだよ、大切なのは楽しいかどうか? だよ」っていいたくなる。もちろん、上達して描けるものが増えれば、表現の幅が広がってより豊かな楽しみになる。だからこそ、上達を抜きにしたお絵描きは、物足りないかもしれない。
つまり、「ああいう絵が描いてみたい」という願望そのものが、絵描きを育むのだ。そして、その願望は感動にあると思う。世界への関心、世界はどうして美しいのか、理不尽なのか、楽しいのか、カッコイイのか、それが感性に訴えかけると思う。つまり、本質的には、その思う心が源流といえるかもしれない。つまり、その思う心を育むことが、絵描きの上達につながるのかもしれない。それは、優しさだと思う。とても、とても深い優しさ、思うという人間が人間たらしめる能力。人間は美の生き物で、絵は優しさに包まれている、芸術はどんなにリョナを描いても、暴力表現をしても、その力から脱却できないのだと思う。より強く、より優しさを持って、描こう。

  ダ・ヴィンチの作品には、その優しさがある、母を喪った哀しみと、母を慈しむ思いがいる。それがダ・ヴィンチを巨匠たらしめているはずなのだ。思いの強さ。もし、絵が描けたら、ではなく、あなたはすでに描いている、心の中ですでに描いている、それを忘れないでいれば、きっと道が開かれていくのだろう。