さくららい制作日記

こころと創作について

ヨイトマケ

  久石譲の風のとおり道を聴いて、ぼくは石川県のことを思いだす。夕暮れ、金平糖のようにキラキラ光る粒が散りばみ。

  どこまでも、どこまでもつづくかのような、千里浜の砂浜を車で走り抜ける。風が窓からやさしく吹き込んでくる。

 

  あの風景は原風景だ。

 

釣りをしたり、海のしじまのひたすらくどい青い海。てな、風景に母の実家があり、曾祖母は明治生まれの人だ。

  やさしく、立派な人だった。が、正直よく覚えていない。よく覚えているのは、曾祖母の棺から白い骨を箸で拾ったことだ。あの人は、死んだ。死んだとは、なんだ。

そういえば、家から曲がった背骨の曾祖母がいなくなった。あの骨らは、彼女のものだった。    

 

  曾祖母、名はときさん、とか言ったか。なにせ明治生まれ、生まれたときは、まわりはチョンマゲで江戸の名残があるのだから。

  かつて石川県は漁業で栄える町であり、先祖もまた、船大工をしていたらしい。いろいろ苦労したそうだが、苦労を話すようなタイプでもしに、そのあたり、雪の国で育ち営む者の強さをみる。

 

火鉢の灰をいじるのとか、よこで鉋(かんな)で木を削るおじさんの姿が目に浮かぶ。

  久石譲つながりで、おくりびと、てな映画があるが、あれもそう。通夜では、死化粧とは、なんと美しいんだろうと思った。

 

………………。

  しみじみ語りたいわけではないんすよ。今、ぼくは人気の抜きゲー脚本家について調べています。ただ、失われていく日本の姿をときどき思い返したいんです。

高熱

 

  一〇日夜に夕飯を食べてから、だんだん体調が悪くなって、そのまま吐いてしまった。
ゲロゲロ……。
ワインを飲んだのがまずかった。胸やけがひどい。それから、翌日はずっと寝込んでいた。


  たぶんインフルエンザだと思う。
  朦朧として、まるで五億年ボタンを押したように、ときが延々と続くように感じた。

 

  むかしの人たちは、今より涙の多い暮らしぶりだったらしい。
  想う、むかしの人たちのことを。
  どうすることもできない想いを。

 

  夜に地球ドラマチックツタンカーメンの謎を観て、一二日に目が覚めたころには、少しよくなっていた。

  ネットを眺めてみると、いろいろな情報があふれていて面白い。だけれど、どこか虚しい。
それは、たぶん娯楽にあふれた時代ゆえにだろう。

 

危ないセールスマン

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  いやあ、じつは明日からカナダへ出張で。あ、タマモはおとなしいですよ。

 

  タマモがうちに来てから、妻はなぜかカンカンだし、僕はなぜたか懐かれて、四六時中の世話をしている。

 

プルルルル……プルルルル……
「どうですかタマモの様子は?」
「それが、懐かれちゃって大変で……」
プープー
「あれ?」
電話は突然切られていた。

 


  どうしたタマモ?


  僕はタマモをみた、タマモは全裸だった


「あずけたのはきみじゃないか」
「だからって!! あんなことするとは思わなかった」


「まあ、じつは新しい狐を飼うつもりだから、いいです」
「は?」
「じつは、カナダに恋人の狐がいるから、どうかタマモを幸せにしてくださいね」


「それって、どういう……」
「ちょっ、ちょっとまってください!! 僕には妻と子供がいるんです」
「タマモに手をだしたのは、きみじゃなかった?」
  どうして、こんなことに。


  思えば、あの変な黒いセールスマンと旅館で飲み交わした頃、ふしぎな話しをした。

 

「あなたの願い、叶えます」


……………………………………。
「お父ちゃん、帰ってこないね」

「あの人、いったいどこへいったのよ」

ふとめくった雑誌の端の記事
“妻子を忘れたサラリーマン 狐と不倫”
【完】

社会とトラウマの話

  巣立ち羽ばたいていく鳥たちが、うまくやっていけずに死んでしまうように。晴れて社会人になったけれど、わたしはADHDなのだとわかって、どうすればよいのかわからなくなることがあります。
   よく耳にする話ですけど、「小学校の頃のイジメが原因で大人になってもうなされつづけ、あげく無関係な人へ攻撃してしまう」
  ADHDはトラウマになりうる一線が低いらしい。たとえ小学生の頃にイジメがなくとも、いずれはトラウマを抱えることになるでしょう。
 

  ことに大切なのは、あなたを支えてくれていた存在のこと。幼い頃は誰しも気づかわれます。しかし、大人になるとわたしのチカラで生きようと努力して、それでいっぱいいっぱいになってしまうのですね。つまり、支えてくれて生きていくヒューマンにとって、愛してくれる、信頼できる人がいるかどうかにかかっています。

 

  ストレスは水です。グラスへたまります。水がグラスからあふれかえると、トラウマとしてあなたを苦しめることでしょう。だから、水をかきだすのです。

  イライラしてやつあたりするときは、誰かが話しを聞いてくれて(あるいは話してくれて)、それらを忘れられる。これらのプロセスがよき人生へ導くことは、もうすでに知っているはずです。

  それに気分は変わりやすいことも、言うまでもありません。

  さっき泣いていたヒューマンは、今にっこりと笑っていることだって、決して珍しいことではないのかもしれません。

 

  それは、このような会話が想定できます。


「もう、どうしちゃったわけ? さっきまで、あんなにムカつくって怒っていたじゃない」
で、そうやってあきれる友人へと吹き出して、笑いながらこう言う。
「泣いて、怒っていたら、もうどうでもよくなった」
  そして、明日のランチには忘れているのです。


  この話しはここでおしまい。

 

おっぱいと蝶

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  どうして、日本の女性はおっぱいをみせるといけないのでしょう。

 

  おっぱいの描かれた絵が気持ち悪がられるのでしょう。

   イスラム教徒の女性は、淫らに肌をみせてはいけませんが、日本からすれば、「どうしてあんなに隠しちゃうの」と思いますよね。しかし、アマゾンの奥地で暮らしている方々からすれば、「日本人はどうしてあんなに肌を隠しているの」となるわけです。

つまり、教化されているわけです。

 

  蝶と蛾はどっちもフランスではパピヨンなのは、有名な話。どっちも鱗翅目の昆虫であり生物分類学上でも区別されていません。

  朝のイメージでモルフォをモデルに、夜のイメージでオオミズアオをモデルに、パピヨンガール(ぼくの造語)を描こうかな、と考えておりました。

  マイナーですが、虫娘というジャンルがあります。これはあまりに幅が広くて定義もあやふやですから、体は人間、翅はパピヨンというものが、パピヨンガールの定義とする(フェアリーではない)。
  蛾娘、蝶娘という隔ては、理科的観点から避けたい。だから、パピヨン
パピヨンの種類を美少女で愉しむという。だから、フェアリーではないのです。

 

ネクタイ

  なるほど、と得心することがひとつ。サラリーマンのネクタイとは首輪である。

  よくイラストに描かれる、ネクタイをぐいっと引っ張るやつ、緩めてビールを飲むやつ、あれは、つまり首輪なのだ。

  あっちのホテルでは、まずネクタイから褒めるらしい。「まあ、素敵なネクタイ」とは、「まあ、素敵な首輪」のことであり、奴隷を誉めるようなものなのだ。

映画 美しい星

 

『美しい星』を観た。

 

  長いぞ、すごく。長時間淡々と進む読書しているような気持ちになる映画。よくある大作でCGばりばりの大迫力に圧倒されるのもよいけれど、観ていてゾクッとするようなカットがあった。ぼくとしては好き。

  余韻がある映画……というよりか、なんども思い返すような映画(原作が原作なだけに)。もういっちゃいますが(そして知っていた方が面白いと思う)地球VS人類みたいな話です。

 

  必死に訴えかけている姿が滑稽なのは、滑稽ゆえに観客と地球を対峙させて、あの政治家は観客の代弁者になっているからだろう。

  誰もが滑稽だと笑い、どうでもよさそうにして、相手にしないようにし……人間のあまりに汚い姿に気がついたとき、美しい星になるのだ。