さくららい制作日記

こころと創作について

悪業! 試し書き

 f:id:sakurarai:20170719055325j:image

  百華(このひと)は、みんなを不幸にしてるんだ。きっと、自分が生きるためなら、なんだってしていい、とかそんか理由で……。

  でも、百華がいないと、私たちは生活ができないのも、たしかだろう。それだけじゃない。生活だけじゃなく、生き方も、たくさん教わっている。

  けれども、私は、悪業(わるいこと)を手伝っている、犯罪者にすぎないんだ……。

 

ぼろのシャツ一枚と安物のジャージのダサい姿で、私は四畳半の部屋で三角座りをしていた。

  そう、頭をかきむしりたくなるほど、疲れていたのだ。涙がとまらなかった。優しい母を心の何処かでは疑いをもっていて、百華さんのことをどこかで尊敬している自分があること、なんて私は馬鹿なのだろう。なんてひどい狐娘だろう。

  百華さんに嫌われたらどうしよう。情けない! なんて嫌われたら、もうお仕事はできないかもしれない。

  好かれなきゃ……好かれなきゃだめなんだ、涙なんか、みせちゃだめなんだ。なのに、どうして、どうして涙がとまらないの……。

 

  アパートの窓から月明かりが真っ暗な自室へゆらめく。
  嫌われた狐娘(ひと)には、居場所なんてない。ゴミ捨場にてでうずくまるしかないだろう。こびを売ってでも、愛されなきゃいけなくて、嫌われた人間は病気のだらしのない社会の廃棄物。などと考えていたら……月明かりが瞳に染みる。
  無力な私が情けなくて、ぼうとしてきた。

 

  もう取り替えしがつかない。私は、詐欺に加担した、つまりは犯罪者で、百華さんには従うしかない。

  いっそ、死んでしまおうか?。でも、死んでしまったから、お母さんにもうしわけがない。
  だから、だからこそ。私は、私のためだけじゃなく、幸せになってみかえしてやりたい。

  こんなにも、幸せになれたんだって。一生懸命に生きれば、多少は悪事に手を染めても、いつか報われるんだって。
  はあ、とため息がでた。すこし熱くなったのが恥ずかしい。誰かいないのかな、とさみしくなってきたから、ひとまず部屋からでてみる。木製のアパートのボロボロに錆びた階段を降りる。階段を音を立てないように、静かに踏んでいく。ふと、街をみた。
  月だ。
月は満月だった。

  雲はなく、透明な夜空に月が、独りで激しく主張しているようだ。わたしはここ、ここにいるんだ! ……て。
  それから、私は幾千ものビルや人々が暮らしている街明かりを探したが、いつのまにか、公園にいた。砂場には、子供たちが遊んだあとらしき山々がのこされている。

 

ここでは補導される可能性があるから、それはたいへんまずくて、とそう頭ではわかっているのに、体はいうことが聞かない。ふらふらと歩いて、ベンチへ座る。夜の風が幽霊の気配を公園の木々へ運んでいるようだ。

  私は、馬鹿だから、約束なんて守れていない。
  母の優しさにも、百華さんの声にも、ずっと約束は守れずじまい。ベンチへ座って、ココアの缶を開ける。ステンレス製の堅さに爪が痛い。ココアは、腹ペコな胃のなかへおくりこまれて、食道を通って、ぐるるるる、と私のお腹を鳴らした。ちょっと、神経過敏になっているのかもしれない。私はどうして、こんな夜の公園でココアを飲んでいるのだろう。生きるため、子孫のため。
  わからない。わからないよ……。

………………………。
  公園からは、きゅーとなゾウやウサギの遊具と、ブランコと、あと鉄棒がふたつみえた。
  深夜は二時くらいだろうか。ひとけはまるでない。まわりの住宅地も真っ暗で、瞳を閉じても、そうでなくとも、かわらないぐらい。
  街灯はわずかに私の頭上から射していたけれど、手に握っているココア缶の成分を読むことは、できそうにない。自分の尻尾を自分でもふり、柔らかな感触に心地よさを得る。
 ああ、これぞ狐娘失格。

  きっと、いまからビルから飛び降りて、死ぬのが一番に楽だろう。生きてゆくならば、てきとうに不良と恋をして、そのまま不良と暮らしていくのもいいかもしれない。

  あるいは、それは幸せの形なのかもしれない。あるいは、はよけいかな……。
  よく見たら、街灯には、蛾が飛び込もうと体を蛍光灯へぶつけて、またぶつけていた。
ステンレス製はココア缶の穴へ覗き込むと、何にもみえなかった。無意味な行為に、おもわずため息ひとつ。

 

  よくお母さんは、生きなきゃいけない、と私へなんども云った。生きて、生きて残るのが、生き物の役目なのよ、と。
  その意味はぜんぜんわからない。
  そんな、優しすぎる言葉を想い出して、すこし笑けてきた。あの美しい瞳を、忘れたことはない。なんて慈悲深いルビーのような瞳だったことか。私はベンチから立ち上がって、背中をのばして、あくびをひとつした。
  明日は百華さんと釣りにいく。そのあと、アパートへ戻り、そのまま布団で寝ることにした。『悪業! 狐のお仕事』

  ぼくは制作が迷走しだしたので、散歩の途中で祠へいった。真夜中なので誰もいない、わけではなく、ここは年中誰もいない祠だった。古い大阪の町並みを残す場所で、ちょっとこの感覚はお伝えできない。地蔵もある。これだ! と悟る。ほのかな灯りに木のしつかんがゾワリとさせうる。
悪業! を決定させる装置。それは、地蔵さん。サンスクリット語ではクシティガルバ(क्षितिघर्भ [Kṣitigarbha])というらしい(このあとから、いろいろ調べて般若心経へたどり着いた)。

 

  ぴゅーひょろひょろ


  ひょろひょろひょろ


と、笛の音が聞こえてくる。笛の音に和太鼓の律動が混ざっている。

  ああ。あれは地蔵さまだ。

  ガルバは、母のお腹のなかを指す。

  狐たちも、警察官たちも、被害者も、弁護士も、皇室の者まで、踊りながらやってくる。
  みな、母の胎でどのような姿では、どうだったのだろう。地蔵は大慈悲により苦悩の者をつみとり救うとされている。だから、日本人は地蔵を日本のどこにでも置いた。
地蔵菩薩兜率天で修行をしている、とされ御釈迦様が入滅後に五十六億七千万年後に弥勒菩薩が地上に出現するまでの間、仏が不在となる。

その間。地獄道、餓鬼道、修羅道、人道、畜生道、天道の六道を輪廻している。

  けれど、そんな日はこないだろう。

 

  六華も、近藤正宗も、皆が笑う。

そして、

生まれてくる者へ。

イマ、ここから先には、想いが溢れかえっているようにみえた。

 

“これも「でうす」千万無量の御計らひの一つ故、よしない儀とは申しながら、「ろおれんぞ」が身にとつては、いみじくも亦哀れな事でござつた。”
芥川竜之介奉教人の死』より引用
『悪業! 狐のお仕事』

【了】

 

 

“やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。”

松尾芭蕉奥の細道』より引用

 

  自動の機能として、考えない状態があるわけだと。筋肉に力をいれて動くように、意識しはじめる。
  これで、ここらか考えていき、裏付けていけばいい。

  般若心経の唱えが、唱えていることで言語の壁にやられていることから脱却したとするならば、筋肉がそうである。

 

  それは式にできるかもしれない

 

  それだともとに閉じ込められているように、一瞬は思うだろうが、そうではないやろうと。

  ま! あとは、その巨大な論理体系を飾る緻密な設定があり、鮮やかに一つへ結晶化できるか、やな。設定を並べていくと、万華鏡になる、とかなら面白そうだ。

 

  六花は内部に巨大な善へ意識しており、それは皇室やまわりの者をベースにしていたために、そこへかえろう、かえろうと動く苦しみが生まれる。今ある幸福を完全に善とはしないから、それが駆動する。

  六花はお金が欲しい、つう凡百な目的で生きているから、わかりやすいはず。
  生きるためには、お金が必要。給料を払ってくれるものがいる。

  お金を稼ぐために、働きつづける。目的がへぼいから、目的を満たすものへ依存関係が発生しとるんぢゃわな(ロリババア)。